日系カナダ史「Gateway To Promise」翻訳チーム近況-5-

何と2か月半のご無沙汰です。

この間、ビクトリアは梅の花から始まって、桜、レンギョウ、モクレン、水仙、藤、シャクヤク、テッセン、など等が咲き乱れ、今はフィロデンドリウウムが満開です。

このブログには近況と共に、盛りだくさんのビクトリアの花々の写真を掲載しましょう。


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ローヤリティのあるブログの読者からは「翻訳プロジェクトまだ続いているのですか?」という問い合わせを頂くことが何回かあったのですが、答えは「はい、勿論です!」。

徐々にではありますが、「確実に進んでいます!」と申し上げられます。


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とにかく、私の絶対時間と忍耐不足でブログを頻繁に更新できないことをお詫びしたいと思います。



さて、それではこのプロジェクト今どんな状況にあるかと言えば、大体半分程が翻訳済みとなっています。

何しろ英語の原本「GatewaytoPromise」はフォントの大きさが#7,8くらいで400ページにもなる本で3章に分かれています。閉じると3センチにもなり、パラパラと見ただけでも大変な情報が詰まっていることが容易に理解出来ます。

それを16人の翻訳者(開始時から一人増えました)が分担して受け持っています。

第1章、第2章は、日本人が初めてビクトリアに到着して以来の歴史に焦点が当てられており、第3章は、当地出身の家族の末裔(まつえい)の方々をインタビューし、それぞれのファミリー・ストーリーが披露されているのです。


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読み込むほどに興味が尽きない日系史なのですが、では翻訳者たちがどのように仕事を進めてくれているかを書きましょう。

分担は総勢16人が2人一組のチームを組んでおり、1章と2章の担当ページの翻訳を受け持ってくれています。そしてこの2人組みが自分たちの担当のページを更に2分して翻訳をした後に、お互いに相手の翻訳をチェックするという方法を取っています。

これによって独りよがりの翻訳の難が避けられるわけですが、続く第3章は21家族+余禄の物語を、訳者一人が1〜2家族の割合で担当してくれています。


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実をいうと、約140年前から始まったカナダの日系史を知るのは当然ながら大切ですが、第3章の個々の家族の物語は、当時ここに住んだ人々の生活が垣間見え興味が尽きません。

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また訳者の一人(日下部健一さん)が立ち上げてくれ、16人全員が共有できる「スタイルブック」も大いに役立っています。つまり訳者が感じる同じような疑問を、単語のカテゴリー別に一覧表に載せることで他の訳者が共有できるシステムです。

もう一つ素敵なことは、同じように訳者のみが共有できるサイト「GoogleDoc」の活用です。

これはやはり訳者の一人である高井マクレーン若菜さんのアイディアで設立されたのですが、翻訳済みの原稿がそれぞれ私に送られて来た後に、今度はもう一人の訳者・渡部句美子さんの管理のもとに、このサイトに原稿が掲載されるシステムです。

これによって他の訳者の仕事振りが見られて参考になるわけです。


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訳者たちからは:

「いかに臨場感、躍動感、謎解きのワクワク感を出せるか、著者の真実、事実を追究する妥協しない真摯な姿勢や歴史学的視点、時代が指し示すチカラ、また所詮、神や仏ではない人間への温かい視線を醸し出すべく気を使ったつもりです」

「今までカナダの日系人の来し方は気になりながらも、それをゆっくりと勉強する暇がなかったのですが、このプロジェクトに参加したことで非常に興味をそそられました。自分が担当したのは一部ですが、完訳の折りに通して読むのがとても楽しみです」

皆さんがそれぞれの立場で、それぞれの思いを持って頑張って下さっているのが読み取れて心底嬉しくなります。




それにしても、16人の方々との電話やメールのやり取りを通して感じるのは、この方たちの知的レベルの高さです。自分の持つ知恵と能力を最大限に活用して、黙々と仕事をこなして下さるひたむきさにはただただ頭が下がります。

これからは16人のそれぞれの翻訳文に私が目を通してライティングスタイルを読み易い柔軟な文章にまとめ、更なる校正をすることになります。
今年の私の夏は「校正の夏」になるでしょうが、思い出深いひと夏になることは間違いないと思います。

では、次にまた翻訳状況の最新ニュースをお知らせするのを楽しみに(!?)待って下さい。


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日系カナダ史「Gateway To Promise」翻訳チーム近況-4-

以下はビクトリア市にある日系人の集まり、ビクトリア日系文化協会(Victoria Nikkei Cultural Society-通称VKCS)の、3,4月号のニュースレターに「Gateway to Promise」の翻訳状況を書いたものです。

すでに協会からは、このプロジェクトのために15人分の原本代として1$525.00をに頂きました。「資金0」からの出発は、心もとないながら、動き出さなければ「山を動かすこと」は出来ないと行動を開始したのです。


この原稿は以下(↓)のニュース・レターの8ページ目に載っています。
私の原稿ばかりではなく、VNCSのニュースレターにご興味のある方は、以下をクリックしてください。


https://gallery.mailchimp.com/0fcb7e2b9134bc0c251f1f1a8/files/VNCS_March_April_
newsletter_2016_hi_res_Final.pdf



Translation has started! - Nikkei History Book “Gateway to Promise”
                                                                                 
  by Keiko Miyamatsu Saunders



Last summer when I first heard about “Gateway to Promise” I thought without any doubt that the author was Japanese or Nikkei.

However, when I had a chance to meet the authors, they were a Caucasian couple: Ann-Lee and Gordon Switzer. When I met them I was puzzled. Why was this couple interested in writing about Japanese Canadian history?

As I came to know their background I understood. Gordon spent most of his early years, from age 3 through 20, in Japan. Ann-Lee grew up in cosmopolitan New York City and has been fascinated with things Japanese ever since her childhood.

As I am a Japanese journalist and originally from Japan, I am always interested in details about the Nikkei legacy in Canada.

While living in Toronto I had been to numerous seminars, lectures and exhibitions related to Nikkei people. I have also read quite a few Japanese Canadian history books.

I was so excited when, after moving here two years ago, I found an abundance of information tracing the legacy, and the trail of Nikkei history. The information in Toronto pales in comparison to the experiences Victoria has to offer.

One example occurred when my husband and I joined a two-day Obon tour (ohaka-mairi) last summer with Rev. Grand Ikuta from Steveston. I was shocked when I saw West Coast Japanese history right in front my eyes!

We visited cemeteries in Nanaimo, Cumberland, Port Alberni, Chemainus, Duncan, and Ross Bay. This was an eye-opening and fascinating series of experiences.

Since that trip I began to think seriously about translating the Switzers’ book into Japanese. There isn’t much information on this subject in Japanese.

How could Japanese people who can’t read English understand this important information? I placed “Wanted Translators” ads in Japanese media in Victoria, Vancouver, and Toronto.

More than twenty people generously responded and I selected fifteen of them from five locations: Toronto, Vancouver, Victoria, Denman Island, and Manila in the Philippines.

Each of the translators showed great enthusiasm towards translating this book. The only problem is finding the money to pursue our project. We were fortunate in receiving a grant in February from VNCS.

It was right before the Switzers, the translators and I had our first meeting at my home. The VNCS grant looked after the cost of the original books provided to the translators.

At the first meeting, we talked a lot about how we would proceed with the translation. Needless to say it is not easy to integrate 15 people. However everyone reiterated their enthusiasm for the project. They told me that they had always wanted to know more about Japanese Canadian history and are happy and excited to be involved in this project.

They also indicated how important a translation of this book into Japanese is in order to introduce Japanese readers to a better understanding of Japanese Canadian history. Yes, we have started the translation!

Next year will be the 140th commemorative year since the first Japanese pioneer came to Canada. We would love to publish the book in time to celebrate that event!

However we still need more funds to print the translated book. I am in the process of applying for a grant from NAJC. T
he VNCS gave us a very supportive reference letter. Again, I deeply appreciate the thoughtful cooperation of the VNCS, especially their understanding and kind spirit of their support for our project.


ビクトリアは別名「ガーデン・シティ」と呼ばれるほどきれいな町です。でも一方では大都市の何処にでも見られるホームレスの問題も抱えています。

2月末より始まる桜の開花は、それは見事!
まさに写真の通りで、町中のそこここで見られます。

しかしこの桜には、70数年前にここに住んでいて日本からの移住者たちの涙ながらの物語があるのです。
どんな歴史を秘めているか・・・、どうぞ翻訳が終わった後に日本語版をお読みになって下さい。

英語版が宜しい方はamazonから取り寄せられます。











 

心意気が力になって・・・


トロントの物書き仲間で発行している年4回の文集「華やぎ 冬号」
今回は取り組み始めた翻訳の大プロジェクトについて書いた



仲間の1人で絵の上手な人が表紙を担当


「あ〜、またやっちゃったっ〜!」「変わらずに身のほど知らずのオッチョコチョイ!」と言った声が頭の中を交差し、せめぎあっている。

と同時に、“You may say I’m a dreamer, but not the only one” ”It always seems impossible until it’s done”など、今までに何度も力を与えられた言葉に今回も後押しされている。言わずと知れたJohn Lennon Nelson Mandelaの言葉である。

私の周りで、すでに“この事”について知って下さる方は多いのだが、これはビクトリアに住むあるカナダ人夫妻の書いた日系史『Gateway To Promise』という本を、日本人翻訳者を募って和訳し、世に送り出そうという膨大なプロジェクトの話である

ちびっちゃ〜いフォントで書かれた、400頁にもなる大判の分厚い本。この構想を頭の中で考え始めたのは、昨年の夏に著者であるスウィッツア夫妻(Ann-LeeGordon Switzer)に出会った直後のことであった。

いつものようにある日ポツンとアイディアが浮かび、それを徐々に膨らませ、そしてある時パ〜ン!と弾けるように行動に移す・・・。今回で4度目になる。

遅々とした歩みながら、今そのプロジェクトが一歩一歩軌道に乗り始めているのだ。嬉しいと言えばこよなく嬉しいのだが、自身の体力や気力が、年前の67歳で書き上げた『日本人の国際結婚〜カナダからの報告〜』の時と比べ大変に違うことを嫌が上にも実感させられている。

あの時は徹夜して物を書き、翌日は身だしなみをちゃんと整えて日本語教師としてほぼ週5日間トロントのダウンタウンに出かけていた。その当時と一つ同じなのは、そのために今も「やることが山のようにある日々」であるが、もう徹夜はとても無理。たった数年前のことなのに・・・。
 
私は外見に似合わずひどく神経質で、「岸惠子に勝るとも劣らぬ不眠症」(笑)。体はトコトン疲れているのに少しでも気になることがあると、ベットに入っても長いことtossing & turning aroundなんてことが珍しくない。
眠れなかった翌日の辛いこと!


さて今回のプロジェクトは一年を掛ける予定で、来年の日本人移住140周年を記念して出版を実現したいと計画している。今まで私が書いた本と今回との共通点は、処女作であった『カナダ生き生き老い暮らし』を除き、一般受けしないとても狭い読者を対象にしていることである。

「こういう本を読みたかった!」と言ってくれる人にはこよなく役立つのだが、バカ売れするなんてことは、自慢じゃないが、天地がひっくり返ってもありえない。

とは言え、この内容はすでに出版されている日本人移民史、例えば新保満氏の「石をもて追わるるごとく」、工藤美代子氏の何冊かの写真婚関連の話、ジョイ・コガワ氏の日系人の排斥に絡む物語などのどれとも一線を画しており、初期の日本人移民がまず踏んだ西海岸に焦点を当てているのが興味深いのだ。

英語の原本に加え日本語訳本があれば、“後世に残るカナダの日系史を語る一冊“になることだけは確かだと自負している。

集まって下さった翻訳者15人の中には、それを生業(なりわい)にしている専門家もいる。もし仕事として請け負えば翻訳代は必ずや入るものを「最悪の場合は”labor of Love”ですが・・・」の呼びかけに「それでもいい」と言って下さるのだ。
今の私には彼らのその心意気が何よりの力になっている。


27日には拙宅に著者夫妻を招き、翻訳者たちとの初会合を開いた。華やぎメンバーのKA.美智子さん、訪日中やスケジュールが合わなかった方2人、加えてトロントから日本、そして今はマニラの国際交流基金に赴任中の石田氏の4人以外は、この会合のためはるばる本土のバンクバーからこの島に来て下さった。

大鍋にまるで学校給食のごとく大量のカレーを作り、またトロントで知り合った二世のトシさん仕込みのレモンパイのデザートを焼いての会食。慌しかったが、充実したミーティングで成果は大だったと思う。

当地の日系人クラブ(Victoria Nikkei Cultural Society)からのgrantが翻訳者たちの原本購入代に廻せたのは嬉しいし、後はNAJCNational Association of Japanese Canadian)のgrantをねらっており、本の印刷代を賄ないたいと切望している。

また上記のコダマ・トシさんは、西海岸で暮らしたご自分の過ぎ越し方の歴史と絡み合うこともあり、このプロジェクトに感動し寄付まで送って下さり、支岐翠さんからの志も受けている。

今の私には病気になる贅沢が許されない。何とかしてこの一年体力を持たせなければならないと必死で、週2回づつのヨガ、タイチ、早足の散歩に力を注いでいる。




今ビクトリアは早春の花の真っ盛り


ピンクの椿の後ろには赤の椿も見える







 

カナダ日系史「Gateway To Promise」翻訳チーム近況 −3−



「Gateway To Pomise」翻訳チームの面々

2月に入って間もなくの日曜日、チームの翻訳者たちと著者のAnn-Lee, Gordon Switzer夫妻を招いて、拙宅で初顔合わせの会合を開いた。

トロントから参加して下さっているKAMさん、去年の秋までトロントの某機関に勤務されていたものの、東京に戻られてすぐにフィリピンのマニラに赴任されているTK氏、訪日中のKWさん、当日のご都合が付かなかったMHさんの4人は残念ながらご一緒出来なかった。

だがバンクーバー方面から5人、当地近辺のから4人、ジョージア海峡に浮かぶ島Denman Islandから1人の総勢10人が上の写真のように勢ぞろいしたのである。

この週末は、月曜日がFamilyDayという国の祝日であったことに加え、中国人のお正月、春節の開始日にあったため、本土のバンクバー方面からお越しの方が、予定のフェリーに乗れるかどうかかなり心配した。
だが、問題なく無事にこれだけの人数が集まれたことは嬉しい限りであった。

とは言え、今度は帰りのフェリーの時間もあり、時間的制約のある中の慌しいミーティングはかなり忙しかったが、返って集中しての話し合いが出来た。

加えて、そのミーティングの前には、拙宅から3ブロックほどの所にあるRossBayCemeteryに出かけ、初期の日本人の移民たち150余体が眠る墓地を散策し、著者のSwitzer夫妻からその歴史を聞くことが出来た。



昨年8月のお盆の時の飾り付け

再度拙宅に戻ってからは、小さなフォントで書かれた大判400ページの英語の原本を、どのようにページ分担するかを話し合ったのだが、ほとんど平等に問題なく仕分けしたのである。

もちろんページの真ん中で切ることは出来ないため、1人分が多少多い人も中には出てしまったのが心苦しかった。
だが、誰もがそれを理解し文句を言う方もなくスムーズに運んだのである。


GTP
英語原本の表紙

話し合いの途中で私は何度も一同の顔を見渡たしたのだが、皆さんとても真剣で、協力してこの仕事を仕上げようとする前向きな熱意に溢れており、何とも素敵な「知的集団」であることが確認され本当に嬉しかった。

しかし一番肝心な題名「Gateway To Promise」の日本語訳を何にするかを決める時間がなかった。
後からメールで相談することは出来るので心配ないが、今のところ:

〔鸞の地への門出 ”19世紀末〜20世紀半ばの日本人のカナダ移民史”
希望へのゲート  ”同上”

などの案が浮上しているが、これについてはもっと翻訳者たちとの意見の交換が必要のようだ。


〜*〜*〜

嬉しいニュース!

トロントに住んでいた頃に親しくさせて頂いたある日系二世の女性は、原本を買って下さり、加えてこのプロジェクトに果敢に取り組む私たちチームの思いに”感動した”とのノートを添えて小切手を送って下さった。


GTP
添えられていた手紙

80歳を越えるこの女性には、西海岸で幼少時代を過ごし強制収容所に送られた経験がある。
私は親しかった割には、子供の頃のその悪夢のような体験について、彼女の口から直接聞いたことはない。

封印してしまいたい思い出なのかもしれないと、あえて話を聞くことを私は避けたのであるが、今となってみるとそれが悔やまれる。





 

カナダ日系史「Gateway To Promise」翻訳チーム近況-2-

ビクトリアのお正月会

昨日は、ビクトリアにあるVictoriaNikkeiCulturalSociety(VNCS)が中心になり、当地の後2つの日系グループとの協賛で「お正月会」が催された。総勢350人ほどが集まり賑やかな新年会であった。

VNCSs NY Party
申年にちなんで天井からつり下げた猿のハリボテ

カナダでは、お正月と言っても1月1日だけが休日で、日本のように年が改まってもそれにまつわる特別な行事などはない。
せいぜい親しい友人同士が「今年の抱負は?」などと聞きあう程度で、何年ここに住んでも日本人にとっては何か寂しい気がする。

そんな中、日本からの移住者や日系カナダ人、又は日本や日本人に関係のあるカナダ人などが多少なりとも住む地域では、「お正月会」と称してそれなりに祝う所もある。

ビクトリアの場合は、いつも一月末の今頃に一品持ち寄ってのイベントが開催される。

VNCSs NY Party
きれいに並んだ持ち寄りのお料理。これはごく一部で時間が経つごとにどんどん追加されていく

以前住んでいたトロントの「お正月会」に比べれば、まことに小規模ではあるが、皆が力を出し合ってイベントを盛り上げようとする気概は十分に感じられる。

加えて、バンクバーの日本国総領事館からは、毎年決まって総領事が参列され関係者には大きな励みになっている。

VNCSs NY Party
挨拶をされる岡田誠司バンクバー総領事

また手作りのイベントの催し物の中には、「餅つき」や、日本語学校の生徒たちの威勢のいい「ソーラン節」、また当地の盆踊りのグループ、太鼓グループのショウもある。

VNCSs NY Party
岡田バンクバー総領事の餅つき
後方の赤いシャツがVNCSの会長Michael Abe氏


VNCSs NY Party
ついたお餅はキッチンでまとめ数々の餅料理に利用される

VNCSs NY Party
一生懸命踊る日本語学校の生徒によるソーラン節

VNCSs NY Party
盆踊りグループのお披露目

VNCSs NY Party
太鼓グループも賑やかに年の始めの太鼓打ちに精を出す

最後には各方面から寄付された品々のオークションもあり、4時間ほどの『新年会」はお開きになった。

VNCSs NY Party
オークションのために集められた品々

〜*〜*〜

ちなみに、この会の中心的役割をしているVNCSから、今回私が立ち上げた「Gateway To Promise」の翻訳グループ14人に、原本代として$525.00のグラントが下りた。

グラント申請などは私にとって初めての経験であったため、どのようにアプローチすべきか知恵を絞ったが、おかげで予定していた金額をはるかに上回る額が下りたことは喜びに耐えない。

VNCSの会長からからは以下の返事が送られてきた。

Hi Keiko,
 
The VNCS board thanks you for the submission of your grant application and for your initiative to undertake this project. It was very informative and everyone could easily understand the project. There was unanimous support for two motions. One to support you with your request for $525 and also to provide a support letter for your application for an NAJC SEAD grant.
Please note that we also felt that this was a continuation of the Gateway to Promise book which was an extension of the Kakehashi project and helps further the story of the history of the Japanese Canadians in Victoria. With this in mind, your project will be considered outside of the policies of our regular grant program and therefore is not limited to $350 and is not a one-time grant. 

〜後略〜

「考えてばかりいたのでは『山は動かせない』」と、いつもと同じに「資金0」で始めたプロジェクトだが、今回は14人の優秀な翻訳者を抱えての出発。

今後のことを考えると眠れぬ夜も幾夜かあったが、少なくとも原本代だけは確保できたことでホッとし、背中をグイッと押された気がする。

GTP






 

カナダ日系史「Gateway To Promise」翻訳チーム立ち上げ-1-

        カナダの土を踏んだ第一号は誰? 
          〜カナダ日系史に新たな側面?〜


GTP
以下の記事が載ったトロントの日系誌「TORJA」

トロントからBC州の州都ヴィクトリア市に国内移住して、早や一年余り
が過ぎた。
40余年過ごした古巣を立つにはそれなりの決心が必要だった
ものの、新たな場所での新たな出発は新鮮であることに間違いはない。


GTP
夏のヴィクトリア市内は何処も花であふれている

送別のとき耳ダコが出来るほど言われた「トロントほどエキサイティング
な町ではない」との危惧も、角度さえ変えて見れば「人の住む所必ず興味
尽きないニュースあり」を実感する。


その一つは日系カナダ人の歴史である。

トロントにいた時から、仕事絡みや個人的な興味も伴って、関連の勉強会、
講演会、展覧会などには欠かさず出席していた。しかし正直言って、その
史実を身近に感じるという体験はなく、親しくしていた数少ない二世の方
たちから僅かに昔話を聞く程度のことであった。


だが西海岸に来てからは、ひとっ飛びに戦前の日系人たちの過ぎ越し方に
思いを馳せる機会が多くなった。


まず驚いたのは、移り住んだコンドミニアムから3ブロックほどの所に、
Ross Bayと呼ばれるヴィクトリアで一番古い墓地があり、そこに150余人
の日系人のお墓が存在することであった。


その墓地の一角には、御影石の碑が建っており、正面には“日系カナダ人
合同慰霊碑、懸橋」と日本語で、また裏側には「
In Honour and Memory
of Pioneers from Japan」と英語で書かれている。

戦前から今に至る日系人が、勇気を持って苦難を乗り越えカナダ社会で
生き抜いて来たことを称えその証を残すために、99年8月に関係者の尽力に
よってモニュメントの建立を果たしたのである。


GTP
毎年お盆の時期には日系人が集まり弔いをする


れは私にとって日系カナダ人を非常に身近に感じたヴィクトリアでの
「目で見る日系史初体験」であった。


日が経つにつれ更なる歴史を知るに従い、ヴァンクーヴァー・アイランド
(以後
VI)の多くの場所に、戦前の移住者がコミュニティーを作り、家庭
を築き、そして亡くなっていった痕跡を見ることが出来ることにも驚いた。


今夏はその中の6ヶ所ほどの墓地を、本土Stevestonの仏教会からいらした
開教使と共にお盆の前に墓参りをした。


GTP
ヴァンクーヴァー島の中ほどにあるCumberland市の日系人の墓

「当地にはこれ程凝縮した日系人の歴史があるのか!」と関心が尽きなかっ
たが、その前後に
VIに集約しての日系史をまとめたある親日家のカナダ人
夫妻の知己を得た。


今まで日系史と言えば日本人か日系23世が書いたものがほとんどであった。

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日系カナダ人の書いた日系史の一冊

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日本人の書いた日系史もあるがすでに40年(1975年)も前に発行されている
(著者の新保 満氏は2015年春にお亡くなりになりました)


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1977年に日系百年祭を祝った際の日・英・仏で書かれ記念誌

ところがこの白人夫妻は自分たちの足で歩いて調査し、それをまとめた
Gateway to Promise 」(2013年)と「Sakura in stone」(2015年)
と言う本を上梓したことを知ったのだ。


GTP
Ann-Lee/Gordon Switzer 著(2013発表と裏の表紙
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400頁にもなる分厚い著書である


下の本はその中からさわりを100頁ほどにまとめた本である(2015年9月発行)
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表紙の裏と表
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読み進むほどに興味深いのだが、そのさわりとはカナダの日系社会で信じられ
ている「永野万蔵パイオニア説」に果敢に挑み、自分たちの考える「第一号」
を選出すると同時に、今までにはなかった「ヴィクトリアとその周辺の日系人
の歴史」に焦点を当てているのである。


周知の人も多いが、永野万蔵に関しては1977年に日本人移民100年祭を祝った
際に「パイオニア」と決められ、以来、史実として定着し、連邦政府地名委員会
はロッキー山脈のオウェキノ湖(
Owikeno Lake)近くの山をマンゾウ・ナガノ
山(
Mount Manzo Nagano)と定めた。

だが当初からこの説には疑問視する声があった。

理由は、実際に
1877年に彼がカナダに到着したという「確固たる資料」はなく
証拠が不十分な上、人生の後半には日本に戻り出身地の長崎県口之津村で没して
いるからだ。


ヒストリアンの夫妻はこの点に焦点をあて、記録がしっかりと残り、当地で事業
を起こしヴァンクーヴァーで没し、そこに墓地もあるもっと相応しい人物を割り出
したのである。


これが歴史の面白さだと思うが、過去に起こったことはそれを立証する不動の
証拠がない限り、後人がどんな立場から史実を振り返るかによって歴史の解釈は
変わってしまうものだ。


万蔵が第一号と決まってから来年(2017)で40年になり「今更なにを?!」と
思う向きもあるだろうが、私はこの新説に大いに興味をそそられた。


そこでこの新たな説を含め、VIの日系史を書いた「Gateway〜」を日本語読者の
ために翻訳したいと考えたのである。
しかし孤軍奮闘では余りにも時間を要する。

「では・・・」と考えた末、
10余人を集め「翻訳チーム」を立ち上げ、分業で挑
もうと決心したのである。

すでに日本、ヴィクトリア、ヴァンクーヴァー、トロントの各地から12月末までに
予定数を上回る翻訳希望者が名乗りを上げてくれた。

2016年の新春を迎え、さあ、彼らと共に新たなプロジェクトに挑みたいと、元旦
の日の出を眺めながら深い深呼吸をしている。


GTP
2016年元旦の初日の出

今後の進行具合は、このブログに随時載せたいと思う。
温かいご支援を!!!





 

エミリー・カーの波乱万丈人生 (5)

    

自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)

ニューヨーク訪問後も絵の創作、晩年は本の執筆に励む
 
EC face
晩年のエミリー・カー,  19341月  (City of Victoria Archives, PR73-4962 M00666)
 
episode 5
 http://www.e-nikka.ca/img_base/10pic.gif生家でエミリーに扮しモノローグをする語り部の Karen Lenz さん
                   (2015年のシーズンは都合により中止)

episode 5
動物好きだったエミリーにふさわしく、生家には19歳になる猫のミスティが飼われている 

そんな折、ローレン・ハリスはエミリーに、東部にいる間にニューヨークに出かけることを勧め、行くに値する町だと強く彼女を推した。

それに対し、最初のうちエミリーは「人間をぎっしりと詰め込んだ大きな町が嫌いなの!」と返事をしている。それでもニューヨークの魅力をしきりに説くハリスは「なぜ?ただ国境線を越えるだけのことだよ」とも言った。 

ロンドンやパリには臆することなく意気揚々と出かけたにもかかわらず、ニューヨークに嫌悪を感じるのは、その欧州での体験ゆえで、「大都会は避ける」という教訓を学んだからだろうとエミリーは思った。

だが今度は、「ほんの短い旅で、一生懸命そこで仕事をするために行くのではない」と自分に言い聞かせた。
そして「見ることが良しとされるそのチャンスを逃さずに実行することを人生のポリシーにして来たはずではなかったのか」と自問し、とうとう大都会ニューヨーク行きを決心する。 

ハリスはエミリーの希望通り、最も現代的な美術を鑑賞することが出来る美術館のリストを作ってくれた。
またニューヨークのモダンアート界を率いる協会の会長に紹介状を書いてもくれたが、この女性の住居を訪ねるまでのいきさつは、後にエミリーが残した著作「Growing Pain」の中に詳しく書かれている。 

そこには、彼女の目を通して見る町の様子や、人間模様が実に生き生きと興味深く書かれており、当時からニューヨークはいろいろな意味で特別の町だったことが分かる。
そしてこの会長との出会いは、エミリーがその後、長い間暖かい気持ちで思い出す出来事の一つになった。 

特に興味深いのはその時の会長との会話である。

エミリーがニューヨークの某画廊を訪ねたとき、ジョージア・オキーフに出会ったことが話題に上った。
ジョージア・オキーフ(1887-1986)は20世紀を代表するアメリカの女性画家で、花や動物の骨など自然界のフォルムを大胆な構図と色彩で抽象化した作品で知られる。

エミリーは会長に「作品の幾つかは美しいと思うけど、彼女が自分の作品について話す時、幸せそうには見えなかった」と率直な思いを伝えている。 

この時のジョージアとの出会いは、エミリーにとっては記憶に残る出来事だったが、ジョージアはどの記録の中にもこのことに触れたものはないという。


評価によっては、現代女性画家の中でエミリーはオキーフに匹敵するともいわれる。 

先住民の教会
エミリーの多くの作品の中でもひときわ有名なものに「先住民の教会」というのがある。

これは、「イースタン展覧会」への出展の誘いを受けたために、搬入に間に合わせようと急ぎ描いた作品であった。景色は西部にあるフレンドリー・コブの先住民の村の海岸に近い灯台からのもので、完成後すぐに送ったのだ。 

episode 4,5
「先住民の教会」(1929年作) AGO所蔵-Bequest of Charles S. Band)

ところが展覧会終了後には、これに3人の買い手が付いたと言う。
 
最終的に誰の手元に渡ったかといえば、グループ・オブ・セブンのローレン・ハリスだと知らされた時には、驚くと共に嬉しさが込み上げとても誇らしく思ったようである。
 
そして数カ月後、エミリーはグループの展覧会のために東部に行った折、ハリス宅でのパーティーに招かれてみると、その作品が美しい額におさまりダイニングルームに飾られていたのだ。


集まった人々は惜しみない賛美の言葉をかけてくれたが、それはトロントに来る2週間ほど前にビクトリアで開催されたある展覧会に、エミリーが作品2点を出展したときの苦い思い出とは余りにも対照的であった。 

その時は、姉たちが展覧会に伴い関連の親睦会を開いてくれたのだが、来場者の誰もエミリーの作品のことは話題にせず、その絵の前でさっと向きを変えて向こうへ行ってしまった。 

しかし驚くことに、一緒にいた姉の一人が絵の前で「私、好きよ・・・」と言ったのだ。
一番気の合わない姉で、今まで一度もエミリーの絵をそんなふうに評価したことがなかったため、彼女は息も止まるほど驚いた。
だが姉はこともなげに一言「額のことよ」と付け加えた。
東部ではこれほどまでに高く評価されるにもかかわらず、故郷の西部では変わらずに彼女の作品に価値を見いだせない人々がほとんどだったのは、何とも痛ましい。 

ハリスは、入手したエミリーの「先住民の教会」について何度も手紙をくれた。
合衆国の展覧会に出した時の高い評価についても送ってくれたのだが、その中で「あなたの絵が一番良かった。でもこれ以上いい作品をもうあなたは描けるとは思いません」とエミリーの能力に限界があるかのごとくに受け取られる手紙を書き送って来た。 

エミリーは激怒し、「私を限定して見ている、もうあの絵についてこれ以上聞きたくない」とその思いをハリスにぶつけた。しかしハリスは「個人の限界を言っているのではない」とし、彼独特の芸術論を展開した。 

こんな経過があっても、二人はその後も思いをぶつけ合い、本音を語り、自由に話す手紙のやり取りを途切れることなく続けたのだ。

そして彼の作品が具象から抽象に変わりつつある過程をエミリーに知らせ、「抽象画は具象画には閉ざされている無限の幅を可能にし、経験の分野が増し、それを大きくする」と、抽象画に関する持論を長々と書き送っている。 

加えてエミリーの絵に対しても「抽象に近いことをして来たではないか」と言い、一歩進んでさらに「絵の本質を抽象化する」ことを勧めている。
 
だが彼女は、自分ではまだ「抽象に対し準備がない」と思っていたようであるが、ハリスの抽象画に対しては「静かで深い誠実さに気付くと同様に、真実にも気がつく」と記している。 

episode 4,5
Abstract Tree Form」(1932年) AGV所蔵 42.3.54. Courtesy VAG)

終焉(しゅうえん)
1933年には、彼女が「エレファント」と命名したキャンピングカーを購入しスケッチ旅行をし、秋にはシカゴでの世界博覧会を訪ね、トロントへの最後の旅にも出ている。

その後の数年はキャンプをしながらスケッチ旅行を試み、習作に励んでいるが、1936年には「Hill House」と呼んだボーディングハウスを貸家にして近所の家に引っ越した。 

この時期の世界的な動きは、スペインの内戦がぼっ発し、イタリアのムッソリーニとドイツのヒトラーが手を結ぶなどして、欧州に緊張が走っていた。
 
またユダヤ人への迫害が増えていることを知り、「戦雲が低くたちこめ、あらゆるものの上にのしかかっている」とエミリーは記している。


この年、三女の姉 Elizabeth が亡くなった。 

episode 4,5
エミリー愛用のキャンピングカー(1934年)  エミリーは「Elephant-鼻の長い象に例えて」と呼んでいた  BC Archives and Records Service : Catalogue #04204 
 

episode 4,5
Above the Cravel Pit1937  (VAG所蔵  Emily Carr Trust)

年代記によれば、エミリーは1937年(65歳)と1939年3月(67歳)に大きな心臓発作を起している。

残念なことに、一回目の発作以降、健康の衰えが始まり、描画より文筆の仕事に比重を置くようになっていった。
入院中にはイギリス人の作家・美術評論家のエリック・ニュートンが見舞い、「ハイウエーを運転しながら、森の中でどっちを向いてもエミリー・カーの絵がそこにあった」と言い、「あなたは西部の精神をつかんでいる」と評した。 

そしてエミリーの手を自分の手に重ねながら「この手は怠けているには余りにも才気があり過ぎる」と励ました。彼のカナダ訪問は英国ロンドンでの展覧会の誘いであった。

「良くなってほしい」と言うニュートン氏の暖かい言葉ながら、エミリー自身は「絵の道具や愛犬を伴ってもう森に行くことが出来ないとしたら、回復したところで何になるだろうか」と自分の健康に懐疑的だった。 

確かに健康には問題があったものの、この間には、英ロンドンのテート・ギャラリー、トロントのAGO(アートギャラリー・オブ・オンタリオ)、バンクバーのVAG(バンクーバー・アートギャラリー)での展覧会も開催され、成功裏に終わっている。


しかし、これでエミリーは創作活動をあきらめはしなかった。絵を描くことは体力的に無理となったところで、今度は作家に転身し物語を書き始めたのだ。 

子供の頃から絵の横に添え書きしたり、ノートを携えて描画の際に感じたことを書く習慣もあり、加えて通信教育で文章の講座も取っていたことで、病気を忘れるために熱心に執筆活動を開始した。(伝え聞くところによると、エミリーの文体は彼女独特の表現があり、またスペルの間違いもあるため、現在出回っている数々の著書を一般読者に読み易くするためには、手を加える必要があったようだ) 

その第一作が1941年に出版された「Klee Wyck」。これは先住民の言葉で「The Laughing One(笑うもの)」という意味である。
昔、先住民の村々を回っていた時の体験がもとになり、病気を得たことで一冊の本として上梓(じょうし)することが出来たのだ。 


episode 5
処女作Klee Wyck」の表紙 National Gallery of Canada and Archives, Ottawa


出版後の反響は著者のエミリーも驚くほどの反響で、出版記念と70歳の誕生日を兼ねて大学の女性クラブの会員が祝賀会を催してくれた。
 
その祝賀会の模様は著書「Growing Pain」の中の「Seventieth Birthday and A Kiss For Canada」に詳しく書かれている。称賛に次ぐ称賛に気恥ずかしさを感じ「贈られた菊とカーネーションの入った箱に顔を隠した」ほどであったという。
 
この本は1941年度のノンフィクション部門のカナダ総督賞を得ている。 

翌年の1942年には「Book of Small(小さいものの本)」を出版するが、戦時中のためすべてのことに引き締めがある時代で、速やかな反響はなかったという。しかし、時が経つにつれ処女作の時と同じように多くの称賛を得たのである。 

この本の出版の後、1943年にモントリオール、トロント、バンクーバー、シアトルで個展が開催され熱狂的に迎えられた。
また1944年には、モントリオールのドミニオン・ギャラリーのマックス・スターン博士が大きな展覧会を準備して60点もの作品を販売している。

どんな状況にあっても描画も執筆も決してあきらめず、不屈の精神を持ち続けていたエミリーであったが、体力的な限界を自覚せずにはいられなかったのだろう。1945年初頭にはハリスを含む合計3人を財産保管人に指名したのである。
 
その年の2月には、バンクーバー美術館で展覧会を準備中だったが、エミリーは更に体調を崩し、生家から2ブロックほどの所にあったセントメアリーズ修道院/病院に入院することを余儀なくされた。

そして春まだ浅い3月2日、その波乱万丈の人生に幕を引いたのである。 

現在、この建物はホテル/レストランになっている。
http://www.jamesbayinn.com/
 
 
信ぴょう性については定かでないが、女子トイレではエミリーの声が聞こえたり、キッチンのお皿が時々カタカタ鳴ったりするなど、彼女の亡霊が出るともっぱらの噂(うわさ)がある。 https://www.youtube.com/watch?v=IV5OWaqOR_k



今は「James Bay Inn」というホテル/レストランになっている 

遺体はビクトリア市の最南端にあるロス・ベイ共同墓地に埋葬され、1981年には写真のような墓碑が建てられた。一番仲の良かった姉 Alice は、エミリーの死後8年目に亡くなっている。 

episode 5

episode 5
五人姉妹のうち一人だけ結婚した Clara はバンクーバーに埋葬されているために墓碑には名前がない 


episode 4,5
墓の周りにはいつも松ぼっくり、花、絵筆、鉛筆などが置かれている 

 

 episode 5
 「Dear Mother Earth」と題するエミリーの言葉が彫られている


「エミリー・カー生誕の家」についての興味深い逸話(201564日 記):
 
歴史的建造物を保存し維持することは、今を生きる人々にとって非常に大切なことは言を待たない事と思う。
それは過去を知ることによって、我々は現在の自分たちの立ち居地を知ることになるからだ。
 
だが、建造物のオリジナリティを大切にして、出来うる限り昔の面影を存続させるにはお金と時間が掛かることは周知の通りで、例え公的機関の力を借りることが出来ても、多くの場合十分ではないことはよく耳にする。
 
だがそこに、歴史があり、歴史上の人物が存在したことを知ることはとてもエキサイティングなことで、後に訪れる者たちに大いなる感動を与えるものだ。この「エミリー・カーの生涯」をまとめるきっかけになったのも、丁寧に保存されているエミリー生誕の家を私自身が訪れたことから始まったのだ。
 
そして私は、その家に住みながらキューレーターとして地道に活動する女性Jan Rossさんを知り、取材にのめり込むほどに、彼女のたゆまぬ情熱に深く感動した。

写真を撮られるのが好きではないということで登場願えなかったが、今冬、生家の床などを中心に大きなリノベーションを施したことで、ビクトリアの某不動産関係の雑誌に紹介されたのでそれを掲載する。
 
episode 5
生家の前と居間に座るキューレーターのJan Rossさん
 
しかし、今はこうして維持することに情熱を傾ける彼女の存在があってこその生家だが、今までには多くの人の手に渡って取り壊し寸前になったこともあるそうだ。
 
その一つにこんな逸話が残っている。

ある日ビクトリアの某レストランで、若い不動産会社の仲間たちがこの家のことを話しているのを、隣でコーヒーを飲んでいたある男性が耳にした。

それは「取り壊してあの土地にアパートを建てる・・・」と言ったような会話だったそうだ。それを聞いた男性はは、読んでいた新聞を即座に置いてその足で銀行に行き、自分の住んでいた家を抵当にしてお金を借り生家を買い取ったとか。
 
後になってその男性は、BC州議員のDavid Groos氏とだったと言うことが後に分かったのだが、その場に居合わせるた偶然と、直ちに起した勇気ある行動が生家を救ったという心温まる話しがある。
 
もしGroos氏がぐずぐずしていたら、今頃ツーリストを乗せて走る馬車の御者たちは「ここはビクトリアが生んだ鬼才の画家エミリー・カーの生誕の家が昔あった場所ですが、今は跡形もありません」と説明しながら通り過ぎていくことだろう。
 
episode 5
生家の前を通るツーリストを乗せた馬車
 
 
 
生家の所有者の変遷やリノベーションに関する記録などについては、以下のサイトに詳細が掲載されている:
 
http://www.bcheritage.ca/emilycarrhomework/issues/owner.htm
http://www.bcheritage.ca/emilycarrhomework/issues/restmain.htm
 
 
 
日本語読者への「エミリー・カーの生涯」の意訳を終えて(2015611日 記):

5月第2週目から、連続5回にわたってエミリー・カーの生涯について書き終えてホッとしている。すでにこの鬼才な画家の家庭、生い立ち、ロマンス、芸術への軌跡や情熱、更には、晩年の作家としての活躍など、その詳細を知っている人多いことと思う。

だが、ごく平均的な話としては、ロッキー山脈から東に行くにつれ、残念ながら、(日本人移住者の間では)ビクトリアやバンクーバーほどには、彼女の知名度は高くない気がする。かく言う私もトロントに住んでいた頃は、ごく一般的な知識しか持っていなかった。

まずエミリーの外見を見ても、目にすることの多い晩年の写真は、どこかエキセントリックで、いつもにらむような目でカメラを見据えており、決してとっつき易い人物とは見えない。そんな外見のためもあってか、ビクトリアに長らく在住している日本人の中でさえ「どこかの国から移民したオバサンかと思った・・・」と言う人もいるくらいで苦笑を禁じえない。

周知の画風といえば、先住民のトーテムポール、天をど突くかと思うほど高い木々、また思い切り枝を張った大木をキャンバス狭しとばかりに描いている。

だが、このシリーズをお読み頂いてお分かりのように、若い頃は普通の静物画などをありきたりに描いていた時期もあったわけだが、私はそこに行くまでの彼女の私的なバックを知るほどに強烈な興味をそそられた。

それは一年前に私自身がトロントからビクトリアに移住し、何度か郊外にドライブしてみると、エミリーが愛してやまなかった吸い込まれそうな高い空、深い森林、怒涛(どとう)渦巻く海辺の景色を目にすることが容易にでき、この自然環境に、時には身が震えるほどの感動を覚えずにいられなかったことが大きいと思う。

また当地には、やはりというか、当然というか、彼女に関する資料や画集が山のようにあることも発見した。

生い立ちをまとめ終えてみたら、更には、彼女が出かけたアラスカにも行ってみたくなり、私は安易な手段だとは思いながらも、クルーズ船に飛び乗ったのだ。

当時の面影は、きっと破壊されているだろうとは当然ながら予想していたが、それでも彼女の体現した世界を身近に感じてみたかったのだ。 


アラスカ:北上するに従って夕日の美しさが際立つ(2015年5月25日撮影) 



アラスカ:下船は出来ないが、甲板からは手付かずの島の風景が満喫できる 20155月25日撮影) 

予想は見事に的中し、ツーリスト用に整備された大型クルーズ船が停泊できる波止場では、エミリーの世界を見ることは出来なかったが、それだからこそ「ああ、エミリーよ!よくぞ100年前を残してくれた!」と、まだ手付かずにある島々を、私は甲板から涙が出るほど感激しながら眺めたのである。

先述のように、今トロントのAGOでは「From the Forest to the Sea : Emily Carr in British Columbia」と題する展覧会が8月9日まで開催されている。ここにまとめた5回にわたるエピソードが、カナダの生んだ鬼才画家の作品を鑑賞するうえで手助けになれば本望である
 
エミリー・カー生誕の家:
Admission:
Adults:$6.75
Seniors/Students:$5.75
Youth(6-18):$4.50
Family:$17.00
Children:5 and under free
Hours of operation
Tuesday through Saturday, 11:00 am to 4:00 pm
May 1st to September 30th, 

Contact:
Phone:250- 383-5843
Email:info@emilycarr.com 

Emily Carr House
207 Government Street
Victoria, BC Canada V8V 2K8

 
エミリー・カーの著書:
*The Complete Writings of Emily Carr: Introduction by Doris Shadbolt 
 Klee Wyck,
 The Book of Small,
 The House of All Sorts,
 Growing Pains,  
 The Heart of a Peacock, Pause: A Sketch Book,
 Hundreds and ThousandsThe Journals of An Artist
 
*Emily Carr : AN INTRODUCTION TO HER LIFE AND ART by Anne Newlands

*Emily Carr: On the Edge of Nowhere by Mary Jo Hughes, Kerry Mason

*Emily Carr: New Perspectives on a Canadian Icon
 
 
日本語訳本(3冊とも上野眞枝訳):

* カナダ先住民物語:原著「Klee Wyck(クリー・ウィック)」の訳
                  エミリー・カー著 明石書房  20026月出版 ¥2160

* エミリー・カー自伝:原著「Growing Pains(青春の苦悩)」の訳 
                  エミリー・カー著 明石書房 20046月出版 ¥4104 

*エミリー・カー 〜野に潜む魂の画家〜:原著「Emily CarrRebel Artist」の訳 
                  ケイト・ブレイド( Kate Braid 著 春秋社  20099月出版 ¥2160
 
 
 
私のまとめたこのエピソード(1)〜(5)のハード・コピーは、ビクトリア市内の以下の場所で閲覧できる。

 Emily Carr House
    207 Government Street
    Victoria, BC Canada V8V 2K8

    P
hone:250- 383-5843


Art Gallery of Greater Victoria
         1040 Moss Street 
         Victoria, BC Canada V8V 4P1
         
         Phone:250-384-4171






 

エミリー・カーの波乱万丈人生 (4)


自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)


グループ・オブ・セブン(G7)の画家たちとの出会い
http://www.e-nikka.ca/img_base/10pic.gif

episode 4,5
エミリー・カーの生家のダイニングルーム

episode 4,5
生家の朝食の部屋(卓上に若いころのエミリー・カーの写真が見える)

episode 4,5
生家のリビングルーム 

episode 4,5
暖炉の上の家族の写真

今は、19201979年代のカナダで活躍した風景画を描く男性7人の画家集団、グループ・オブ・セブン(G7=http://www.mcmichael.com/)の存在を知らぬカナダ人はいないだろうし、世界的にも知名度は高い。 

オリジナルのメンバーは、フランクリン・カーマイケル(Franklin Carmichael18901945)、ローレン・ハリス(Lawren Harris18851970)、A.Y. ジャクソン(A. Y. Jackson18821974)、フランク・ジョンストン(Frank Johnston18881949)、アーサー・リスマー(Arthur Lismer18851969)、J.E.H. マクドナルド(J. E. H. MacDonald18731932)、フレデリック・ヴァーリー(Frederick Varley18811969)である。 

後には、1926年にA.J. カッソン(A.J. Casson18981992)、1930年にエドウィン・ホルゲイト(Edwin Holgate18921977)が、1932年にレモイネ・フィッツジェラルド(LeMoine FitzGerald18901956)が 加わった。またもう一人トム・トムソン(Tom Thomson18771917)は、画家たちとの交流はあったが、グループが形成される前に死去している。
この一大組織の画家たちは、保守的で模倣的体質を持つ当時のカナダ芸術に嫌気がさし、グループを結成したのである。 

しかし東部カナダの出身者ばかりであったため、西部カナダで日々忙しくボーディングハウスを営み、芸術とはほど遠い生活に追われていたエミリーが、1927年までその名を知らなかったとしても全く無理からぬことだろう。

そのグループからの、寝耳に水のような展覧会の招待を受けた時のエミリーの驚きは、いかほどのものだったか! 

姉たちから東部行きの了解を取り、出展作品を送り出して後に、エミリーはやる心を抑えながらオタワの国立美術館での展覧会に出席するため意気揚々と出発したのである。
そんな彼女の嬉しさを抑えきれない様子は容易に想像できるが、旅の途中の最も大事なイベントは、トロントで途中下車してG7の画家たちと会うことだった。

「わたしは展覧会を見るために東部に行くのではなく、7人に会って彼らの作品を見たかった」とエミリーはのちに記している。天にも昇るような気持ちを味わいながらも、同時に、長い間、真剣に絵を描くことがなかった自分に急に不安も覚えたのだ。 

episode 4,5
油絵「Arbutus Tree」(1922年)(National Gallery of Canada, Ottawa所蔵) 

トロントでは、まず、A.Y. ジャクソンのアトリエを皮切りに、オタワ行きの次の汽車に乗る数時間の間に、ローレン・ハリスを含む4人に会うことが出来た。

どの画家たちとの出会いも刺激的であったが、特にハリスとの出会いは、エミリーのその後の芸術活動に多大な影響を与えることになる。彼の思いもよらない暖かい歓迎には心底感動したが、オタワに行く時間が迫り、何と言っても時間が足りない。だがハリスは快く再会を約束してくれた。 

episode 4,5
ローレン・ハリスの作品 AGGV所蔵From Berg Lake, Evening #4 in the “Sketches of Mount Robson” seriesaround 1924-1930年)On loan from private collection 

オタワでの展覧会は大成功だった。
いつも見慣れているトーテムポール、カヌー等などの数多くの作品が一堂に展示されていることに驚き、こんなに大きな展覧会への出展は、パリのサロン・ドートンヌ以来だと感慨を覚えずにいられなかった。(オタワ国立美術館は翌年の1928年にエミリーの水彩画3点を購入) 

カナダ西部での展覧会では、思い出すのも辛いほど人々は彼女の絵を嫌い無理解だったが、オタワでは皆が余りにも親切で、かえって気恥ずかしさを覚えたほどだ。
出展作品への評価も、フランスにいた時以来の心地よいものだった。 

この展覧会のあいだ中、エミリーはハリスとの再会を熱望していた。
彼はそれを約束してくれたものの、そのチャンスは是非「西部に帰る前に」と心の焦りを抑えようもなかった。
展覧会の成功にもかかわらず、エミリーはまだどこかシャイであったが、勇気を奮い起こしてハリスに電話を掛け、明後日には西部に戻ることを告げ、その前に是非もう一度訪問したい旨を伝えた。

   episode 4,5
ローレン・ハリスのスケッチ AGGV所蔵「Mountain LandscapeGift of Mrs. Peggy Knox
 
トロントで再会したハリスは自宅での夕食に招いてくれ、音楽、絵画の話に時のたつのも忘れたのだが、翌日には再度アトリエに来るように誘ってくれた。
しかしエミリーが、長い間真剣に絵筆を握っていないことに気付いたハリスは、自分のアトリエでは特に何が見たいかを聞いた。


エミリーは「すべて!」と即座に答えた。


彼女の作品展は、オタワの後にはトロントが予定されていたため、エミリーはその評判や作品を厳しく批判して書き送ってほしいと別れる前にハリスに懇願した。 

この刺激的な出会いは、生活に追われて絵を描くことから離れていた15年間の空白を一気に埋めたかのようで、エミリーは東部から戻った3日目に再び絵を描き始めた。(資料によれば、エミリーは「15年の空白」と言っているが、それは精神的には真実であったものの、数は少ないながら制作は続けていたという) 

後日、ハリスから送られてきたトロントでの展覧会に関する長い手紙には、彼が作品にいかに感動し素晴らしかったか、批判することは何もないと書かれていた。
加えて、先住民のスピリットや彼らの人生や自然への思いに対し、「あなただから出来る最も適した方法を見つけ、答えているのではないだろうか」とも書かれていた。 

今まで彼女の作品に関し、他の批評家が書いたような技術的な指摘とは全く異なり、ハリスの手紙には、作品を先住民やカナダと結び付けて見てくれており、その寛大な称賛はエミリーの気持ちを舞い上がらせるに十分だった。 

とは言え、ボーディングハウス経営で家事労働が重くのしかかる日常生活のため、遠出をして絵を描くことは出来なかった。
しかし近場の森には鼻歌を歌いながらよくスケッチに出かけ、またその夏には、以前訪ねた北方の村々や新たな場所に足を運んだ。しかし残念ながらいたるところで先住民の生活に惨めな変化が生じているのを目にしたのである。

博物館が買いあさっていたため、多くのトーテムポールが売られてしまっていた。今や先住民たちは、金もうけのために旅行者を喜ばせるような表面的で意味の希薄なものを彫っていた。 


G7の招待リストに載る
G7の出会いから間もなくして7人の画家たちは、彼女の名前を「招待リスト」に加えることに同意し、その旨を知らされたエミリーは大変に喜んだ。

最初の出会い以後、すぐに始まったハリスとの文通は、途切れることなく続けられ、エミリーは彼から絶え間ないインスピレーションを与えられた。

先住民の村々での変化を書き送った時には、しばらくの間、彼らをモチーフとして使うことをやめるように説得され、自然の中から自分自身のスタイルをもっと学ぶようアドバイスされた。 

episode 4,5
Above the Gravel Pit」(1936年) (AGGV所蔵)

またエミリーは、ただ一人カナダの西にいて孤軍奮闘をしているのに反し、東部の7人の画家たちは、一丸となって活躍しているのを知るにつけ、「とてもうらやましい!」と書いた時には、ここは「おしゃべりが多過ぎる」と嘆き「孤独は素晴らしい」と返事を返して来た。

思えば、孤独はいつも自分で選んだ道だったことにエミリーは気付き、そんなことを言う自分を「年とった愚かな私!」と自嘲した。 

以後、西部での孤立を嘆くのをやめてみると、切り離されていたのがかえってよかったのだと思えるようになった。過ぎし日、外国で学んだものが熟成し、今は当地での見方の中に置き換わり、自分の中に浸透していることを感じるようになった。 

その国を表現するには、長い年月をかけて育み熟成された最良の方法があるもので、それをそのまま新たな場所、例えば新開地のカナダに適合させることは無理があると悟ったのである。

またこうした時期には、例えばアメリカのシアトルから来て彼女と議論したり、絵画の技法を教えたマーク・トビー(1890-1976)のような若い芸術家との交流もあり、エミリーは大いなる影響を受けている。
 
特に日常の雑事から離れることをトビーはエミーにしきりに忠告している。 

episode 4,5
マーク・トビー作 油絵「無題」(1948年) 
AGGV蔵: Gift of Dr. P. R. Dow in Memory of Berthe Poncy


エミリーはハリスに限らず、東部のG7のメンバーや芸術家とも文通を行い、グループ展が開かれた折に3回ほど東部への汽車の旅をした。


(次回に続く)







 

エミリー・カーの波乱万丈人生 (3)

自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)


フランスで絵画を学び帰国、だが困窮の日々は続く
 

episode3          
▲BC州ビクトリア市ダウンタウンのビクトリア・ハーバーを望める場所に建つエミリー・カーのブロンズ像(正面と後姿)
肩に乗っているのは可愛がっていた猿のWoo、彼女の周りにはいつも動物がいた。

フランスへの旅
再度の渡欧の決心に家族は困惑し心配したものの、エミリーの決心は固く、今度はフランス語のわかる姉の Alice と共に出発することになった。

途中、苦い思い出のあるロンドンは急ぎ通過し、ドーバー海峡を渡り、美しい田園風景の広がるフランスの田舎を滑りぬけパリに到着した。
居を構えたのはモンパルナス地区であった。
 

時は1910年。ヨーロッパではフォービスムのマティスやルオー、キュビスムのピカソやブラック、アールヌーボーのクリムトやガウディなどが前後して活躍していた時期であった。

エミリーは世に言う「ニューアート」が何であるかを発見したいとの思いが強かった。と同時に、自分の作品がどのように評価されるかにも興味があった。
 
 
 勧められるままにある美術学校に通い始めたものの、フランス語を理解しないエミリーには、自分の作品を教師がほめているのか、あるいは非難しているのか最初のうちは理解できなかった。
しかし持ち前の前向きな頑張りで懸命に学ぶ努力を惜しまなかった。
 

だが、余りにも根をつめての制作の日々に疲労困憊(ひろうこんぱい)し、ここでもまたロンドンと同じように、病魔に襲われ3カ月ほど入院する羽目になった。
医師からは大都市を離れなければ死に至るだろうと言われ、姉の
Alice と共に療養のためにスウェーデンに行く決心をする。 

カナダに似た風景が広がるスウェーデンへの旅は楽しかった。

熱い塩湯に入ったりするなど、ゆっくりとしたことが効をなしたのか、春にはフランスに帰ることが出来た。
姉はパリに戻ったが、エミリーは同行せず、クレシーというパリから2時間ほどの郊外に行き、以前パリで通ったアトリエの教師が設立した新たな教室で風景画などを学び始めた。

 

episode3
フランスでの水彩画「Brittany Coast」(1911年) (AGGV所蔵 Gift of Major H.C. Holmes)


この教師は、最初とても気難しそうで取っ付きにくく、芸術面で女性が男性と競うことを快く思わなかった。

だがある日、エミリーが習作を壊したのを見て「君に教えるのはだから好きなんだ。何かもっと良いものを見つけるために、いつも一番いいものを壊してしまうんだから」と言った。

また自分の絵を他の生徒には見せるのに、エミリーには見せなかったりすることに不満を言うと、「他の学生はまだ将来何になるか決めていない。でもあなたは、すでに女流画家の一人になる積もりなのだから私の作品に影響されてはいけない」と彼独特の褒め言葉でエミリーを励ました。

 

episode3
フランスでの油絵習作「無題」(Hillside in France)1911年)(AGGV 所蔵、Flora Hamilton Burns Bequest)
 
 
しかし、エミリーが息抜きもせず常に貪欲(どんよく)に絵の勉強に専念するのを見て、「もっとおしゃべり、おしゃべり、おしゃべり」とリラックスすることを説く。

それに対しエミリーは、フランスでの滞在が限られていることを伝えたのだが、教師は「あなたの国の無口な先住民たちの方が、ここにいる持って回った芸術のたわごとを言う人たちよりも、もっと多くのことを教えてくれるだろうよ」と言うのだった。
そしてその年のサロンドートンヌ展に、彼女の二つの作品が展示されたのをとても喜んでくれた。
 

その後、教師夫妻がブルターニュに転居するのを機に同行し、都会から離れた田舎で野に出ては習作に励んだ。
エミリーはその地で彼女独特の心のこもったアプローチで人付き合いをし、近くの農家の人々、特に子供たちと仲良くなり、牧歌的で心温まる暮らしを存分に楽しんだのだ。
 


episode3
フランスでの油絵習作「Brittany」(1911年)(McMichael Canadian Art collection, Gift of the Founders, Robert and Singne McMichael)  


この14カ月にわたるフランス滞在で、エミリーはフォービスムや水彩画を学び、1911年にカナダに戻ったのである。 

バンクーバーでの生活
イギリスからカナダに帰国した時に比べ、フランスからの場合は心身ともに強靭(きょうじん)になっており、視野も広がり、教師として教えること、あるいは自分自身の勉強に関しても次のステップに行く準備が出来ていた。 

だが、広大な西部の自然とどのように向き合うかになると変わらずに困惑し、またビクトリアも以前と同じように、芸術を育(はぐく)み絵画の制作をするには不毛な土地であることを再認識させられた。

そこでバンクーバーに行ってアトリエを開き、フランスでの作品の展覧会を催した。しかし、来場者は壁に掛けられた作品に、目をつり上げて驚きのまなざしで眺め、そして笑った。 

彼らは木を見て森を見ることが出来ず、批評家は「カメラのようにすべてを写し出す表現方法をよしとする」と言い、細かい部分が描かれていないエミリーの作品に混乱し、怒りを露(あらわ)にした。

中にはアトリエに用もなく入って来ておしゃべりはするものの、壁の絵には目もくれようとしない友人もいた。
 


episod3
フランスでの油絵習作「Autumn in France」(1911 年)(McMichael Canadian Art Collection, gift of Dr. Max Stern, dominion Gallery, Montreal 


しかしエミリーは、彼らが作品を理解できなくても、それによって傷つくこともなく、自分の画法は風変わりでも過激でもなく、また奇怪でも下品でもないと信じていた。

だがカナダ西部の人々は、パリでの習作は単に注意を引くために異常な指向に走っていると取っていたのだ。
 

新聞の記事が屈辱的でも、また人々にあざ笑われても、エミリーはフランスに行ったことを後悔することはなかった。

それよりも、古い画法ではこの国の広さや深さや高さを、また侵すことの出来ないほどの静寂さを表現することは出来ないと確信していた。


一千万台のカメラを用いても本当のカナダの自然を表現することはできない、何よりも生きた心で感じ、それを愛さなければならないのだと。 

だが西部カナダの人々は超保守的で、一世代や二世代前にカナダに移住した時の価値観をそのまま維持していた。彼らは保守的な本国のイギリスでさえ、ゆっくりと前進していることに気付かず、古くてすたれたものに固執していたのだ。 

アトリエの生徒は数えるほどしかいなかったため時間は十分にあった。だが彼女は時間を無駄にはせず、スケッチをするためによく北方に出かけた。

そして自分でも自身の絵の成長に気づくようになっていた。
 

先住民の村々も訪ね、トーテムポールの絵をますます描くようになり、彼らとの交流を深めていく。
おそらくフランスから帰国後に味わったバンクーバーでの疎外感の反動が、この時期に先住民との親密感をより深めて行ったのではないだろうか。


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Tanoo, Queen Charlotte Islands (1913) (BC Archives collection , Royal BC Museum Corporation, Victoria 所蔵)


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Memalilaqua, Knight Inlet」(1912年)(National Gallery of Canada, Ottawa所蔵) 


だが絵も売れず、生徒もほとんど集まらないアトリエを維持することは難しく、閉鎖することを余儀なくされ、ビクトリアに戻る以外に道がない羽目に陥ってしまう。
 
姉妹たちもエミリーの新しい絵を嫌い、新画法で絵を描き通すことを「狂っている」と非難した。

彼女たちは「生徒は来ない、絵は売れない、飢えるだけよ。旧来の画法に戻りなさい!」とうるさかったが、エミリーは「私は飢えた方がよっぽどいいわ」と突っぱね、「古い描き方は死んでいて意味がなく空っぽ」とやり返した。


家庭内でのエミリーは孤立無援で、急進的な画法は家族の不名誉とさえ考えられてしまった。 

ボーディングハウスの女主人
しかし何はともあれ、生活をしていかなければならない。

一時は父親が残した広大な土地があったが、町の区画整理で分割されていた。税金の高騰も手伝って土地を売り、姉妹たちはそれぞれに与えられた自分の土地を所有し維持することになった。
 

エミリーは、借金をして4部屋ある「Hill House」と呼ぶボーディングハウスを建築し、家賃で生活のめどを立てようと計画した。

そうなれば絵も自由に描けると踏んだのだろう。二階にはアトリエとして採光が入る窓が幾つもある一部屋を設けている。
 

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ビクトリア市 646 Simcoe Streetに今も残る建物。アトリエ用に窓の多い部屋を二階の端に造った 



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裏庭からの眺め。この家は現在の家主が手を加えているとは思えない状況で、残念ながらだいぶ荒れている


 時は第一次世界大戦(19141918)ぼっ発の時期。
戦争に行った人々に代わって、職を得ようとする荒くれた人々が町に流れ込み、ビジネスには未熟な女主人につけ込むことも多かった。

家賃からの収入だけでは一軒家の維持は十分でなく、エミリーは家計のやり繰りのためにあらゆる仕事をしなければならなかった。
 

例えば、除隊した兵士の慰みになるという牧羊犬イングリッシュ・ボブテイルの子犬を一時は350匹ほども飼育したり、焼き物用の窯(かま)を作って陶器を焼き、そこに先住民のモチーフで装飾を施したり、また敷物を作るなどして乏しい家計を補うことに必死であった。 



先住民のモチーフを描いた壁掛け陶器や針刺し(1924-1930年) (Vancouver Art Gallery, Bequest of Alice Carr, Victoria 1951)


この間には、1919年に長姉(Edith)と次姉(Clara)が相次いで亡くなっており、エミリーは自分が芸術家であることなどは、ほとんど忘れるくらい日常生活の雑用に追われる日々を送っていた。

それでも時には、女性向けの雑誌に挿絵(さしえ)を描く仕事を引き受けたり、また通信教育でショートストーリーの書き方を習う「文章作法」のコースを受講したりもしていた。

おそらく、殺伐(さつばつ)とした日々を送りながらも、心のどこかに多少なりにも潤いや慰めを求める気持ちがあったに違いない。


そんな日々の1927年のある日、オタワにあるカナダ国立美術館から一本の電話が掛かって来た。

この出来事がエミリーのその後の運命を大きく変えることになるのだが、もちろんその時の彼女はまだそんな事を知る由もない。


用件は、国立美術館で西部カナダの先住民の絵画展を開催したいので、絵を出品して欲しいとの要請であった。当然ながらエミリーは驚愕(きょうがく)した。

その頃の東部では、「Group of Seven(G7)」と呼ばれる7人の男性アーティストが台頭しており、カナダの絵画界の大改革を行なっていたのである。

しかし、生活に追われていたエミリーは、彼らの存在も、またカナダに国立美術館があることさえも知らなかったのだ。
 

やがて絵の下見に来た国立美術館の人に、東部における芸術の最新事情を聞かされ、さらには、トロントやオタワに出向き、この7人の画家たちに会うことを勧められた。

余りにも唐突ながら久し振りの刺激的な話に、忘れていた絵画への情熱が再燃し、すぐに東部に出向く決心をした。
 

今は2人だけになってしまった姉たちに相談したところ、意外にもすんなりと「行けない理由は何もないじゃない」と快く賛成してくれた。
その上に、留守宅のボーディングハウスなどの世話も引き受けることを約束してくれたのだ。
 

さあ、55歳のエミリーの運命はここから大きく転換するのである。 

(次回に続く) 








 

エミリー・カーの波乱万丈人生 (2)

自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)

初めてのヨーロッパ(英国)に絵の勉強に行くが、しかし病をえて帰国

 
 

episode2
エミリー・カーの生家前の案内板 


イギリスへの旅
この時までのエミリーの絵は、普通の美術学校でのカリキュラムに基づくもので、一般的な静物画、肖像画などが中心ではあったものの、段々と純粋な風景を中心とする方向へと傾いても行った。また同時期には、詩を読む楽しみも生活の一部になっていたようだ。 

episode2
静物画「メロン」1892年、サンフランシスコでの作品 1899  (BC Archives and Record Services: Catalogue PDP 650)
 
episode2
風景画「Cedar Canim’s House,Ucluelet 1899  (BC Archives and Record Services: Catalogue PDP 2158)

そして1899年には、絵画教室からの収入をロンドン行きの旅費に蓄えたことで、それまで長い間秘めていた思いを吐露し「私、ロンドンに行くわ」と周囲に告げたのである。

もちろん絵画の道を極めるのが目的であった。その旅の始まりは、東海岸から大西洋を渡る船に乗るまでの、大陸横断の寝台列車から始まった。
カナダの余りの広さに息をのみ、ロッキー山脈の起伏やその頂上に雲がかかる様子に心を躍らせたが、それらはまさに、エミリーの持つ生来の自然への思い入れそのものを、自身の目で確認するものだった。
 

サンフランシスコと今回の旅との大きな違いは、アメリカという新興国へ行くのではなく、古い伝統と歴史のある欧州(ロンドン)への旅であったことだ。
10日間の航海中からすでに、興味深い船客との出会いを体験しながらやがてロンドンに到着。 

折しもイギリスは、ビクトリア女王時代の終焉(しゅうえん)を迎えた時で、亡くなった女王の柩(ひつぎ)の葬列を見送る人々の様子や、長い伝統のある王室に対する庶民の思い入れも目のあたりにすることが出来た。

また、そうした国に住む堅実で厳格な人々との交わりは、新生カナダでの生活からはほど遠いことを感じながら、「旧世界」との出会いを興味深く観察している。
 

しかしここでの生活は、カナダと同じように国として浅い歴史を持つサンフランシスコでは体験しなかった「植民地からきた人間」という、軽べつ感を感じさせられることも多かった。 

まず、入学することになったウエストミンスター美術学校の受付で、「(カナダの)西海岸ではスターでも、文明国で競争するのはかなり大変よ」などとあからさまに嫌味を言われショックを受ける。

また入学後、実技クラスで初めて女性のヌードをデッサンする時には、モデルの裸にドギマギしながらも、その肉体の美しさに息を飲み羞恥(しゅうち)心が一掃された。

サンフランシスコでも似た経験をしたが、これは肉体はみだらで隠すべきものであって「美しいもの」として教えられなかったためだが、改めてここでも驚きを隠せなかったのである。
 

ロンドンに来て一年目には、エミリーが一番好きな姉(Alice)が2カ月ほど遊びに来たことがあった。しかし姉は絵画には一切興味を示さず、作品を見ることも、それについて聞くこともしなかった。この出来事は、以後、家族に対し彼女の芸術への情熱を心の奥深くに押し込め、封印する決心をすることとなる。 

episode2
イギリスでの生活を描いた素描 1901 (BC Archives collection, Royal BC Museum corporation, Victoria, PDP 6112, 6114, 6116, 6125)

もう一人記すべき訪問者は、エミリーに長い間思慕を寄せていた男性である。カナダにいた時にプロポーズした人で、3カ月の休暇を取り、わざわざロンドンまで彼女に会いに来たのだ。

伝記によると、その間に彼は毎週5回は「結婚しよう」と申し込んだようだが、その度にエミリーは「ノー」と言い続けた。
 

今、私たちがよく目にするエミリーの写真は、頭に網のボンネットをかぶり睨(にら)むような目でカメラを見返す晩年のショットが多い。だが、若い娘時代の素描や写真などは、意志の強さは紛れもなく感じるものの、目の大きい整った顔立ちであった。 

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晩年のエミリー・カー Emily Carr in Her Studio with “Sunshine and Tumult, 1939年、 National Gallery of Canada and Archives , Ottawa
(撮影: Harold Mortimer Lamb 1891- 1970)

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▲2122歳のころのエミリー・カー(BC Archives collection, Royal BC Museum Corporation, Victoria)  

この男性は、エミリーがカナダの先住民の村を訪ねた時に乗船した船のパーサーだったとか。

プロポーズを断ったことをロンドンの下宿先の女性に話した時には、「なんてオバカさんなの! これ以上いったい何を望んでいるの? 王子さまを待っているってわけ?」と驚かれたが、エミリーは「誰も待ってなんかいないわ。私はロンドンに絵の勉強に来たのよ」と平然と答えている。
 

結果的に英国滞在は5年半になるのだが、最後の一年半ほどは種々のストレスが重なり、病魔に冒されてサナトリウムに入院するという悲劇を味わうことになる。

インフルエンザから気管支炎を発症しヒステリー状態にもなるなど、病状が悪化するに従い、医者からカナダに戻ることを止められてしまうのだ。
 

episode 2
生家に飾られている靴のレプリカ。ロンドンでは足の古傷が悪化し靴も履けないほどの大変な経験もする 



挫折と病魔
意気揚々とロンドンに行ったにもかかわらず、また、自らを鼓舞して芸術の深みをより探求したいという強い思いを持ちながらも、最後には挫折という負の思いを抱きながら帰国しなければならなかった彼女の心境はいかばかりであっただろう。

心身ともに打ちのめされていたものの、小康を得た折に医者からカナダに帰る許可が出たのは1904年であった。 

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イギリスのサナトリウムに入院中、ベッド脇でひな鳥を飼育していたときの自画スケッチ。動物好きなエミリーはいつも周りに生き物を飼っていた(1903年)( Clarke Irwin and Co.Ltd, Courtesy Stoddart Publishing Co. Ltd)

嬉しかったのは、心身共に落ち込んでイギリスを離れようとしている時に、BC州の内陸部にあるカリブー地方(http://www.southcaribootourism.ca/)に住む友人から「ビクトリアに帰る途中に、ぜひ私たちの農場に立ち寄って」との手紙を受け取ったことだった。

この招待は、異国でエミリーが味わった敗北感や、また故郷の人々に「ロンドン行きは失敗だった」と認めさせる結果になるのを少しでも和らげるという意味で、貴重な小休止になったのだ。

2カ月ほどの滞在中には、農場のポニーに乗って遠出をしたり、野原で雁の群れが餌をあさるのを細かく観察したり、またコヨーテの鳴き声におびえたりもした。しかしこの間は体力回復という目的もあって、絵筆を脇に押しやって制作を一切絶っていた。 

夫婦で農場を経営する友人は、エミリーとの再会を喜び温かく迎えたものの、「あなたはカナダを出た時と比べ成長も洗練もされてもいない」とか「目を閉じてロンドンを通過したんじゃない」などとあからさまに言われたりもした。

長い英国生活にもかかわらず、表面的には洗練されたとは言い難い、変化の余り見られないエミリーの様子に友人は驚いたのだろう。
 

カリブーでの休暇は体力を回復するのに確かに役立ったが、友人との再会は表向きは仲良しの古い友だち同士を装ったものの、離れていた年月はお互いを全く異なった方向に向かわせていたのだ。

二人の間に距離を感じずにはいられなかったエミリーには、「彼女はもう友達でも知人でもない」と心の底で思い知る結果になったのだ。
 

再び故郷へ
5年半ぶりに32歳で故郷のビクトリアに戻った時、いやが上にも知らされたことは、周りのすべてのものが自分と同じ年月だけの齢(よわい)を重ねていたことだった。

親しかった友人たちもそれぞれの道を歩んでいた。エミリーは誰も自分と同じ方向に歩みを進めることはないし、自分も他人の進む道に興味はないことを痛感し、以後、新たな友人関係を築くことに一生懸命にはなれなかったという。
 

元の生活に戻る日々の中では、時間の多くを牧羊犬を連れて馬に乗り、森に出かけては自然の中に身を置くことに費やした。そんな折、時にはロンドンの喧騒(けんそう)を思い出すこともあり、カナダの森との漠然とした類似点に気付いたりもした。

それは全く違う2つの場所ながら、とてつもない力や深さ、また強靭(きょうじん)さを持っていると感じるのだが、しかし一方、似ているのはそこまでとも思うのであった。
 

そしてあくまでも垂直に伸びている、冷たい樹液を湛える森の木々を両手で抱きしめながら、西海岸に戻ったことに心からの安堵(あんど)を覚えたのだ。

しかし残念ながら、ビクトリアには昔と変わらずに「芸術家」と呼ばれる人々はいなかった。だが、エミリーは絵画教室を開き、雑誌に挿絵を描く仕事をこなしたりしながら、Ucluelet(ユクルーレット)への再度の旅も試みている。 


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▲1909年に創ったカレンダー用のスケッチ。時にはこんな軽妙な絵も描いていた (BC Archives collection, Royal BC Corporation , Victoria PDP 6071,6078,6074)

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水彩画「Totem Walk at Sitka」(1907年) (The Thomas Gardiner Keir Bequest, AGGV所蔵)

そんなある日、友人に誘われるままバンクーバーに渡って、そこにある芸術クラブで上流婦人たちに絵を教える職に就いた。

しかし、彼女たちが期待したのは「ロンドンで数年間絵の勉強をして来たおしゃれな絵の先生」であって、エミリーはその対象にはならず、すぐに解雇された。             
 

もちろん彼女自身もそんな雰囲気に居心地の良さを感じるわけもなく、辞めさせられたことに喜びこそすれ、不満はなかった。

それをきっかけに今度は子どもたちを集め、室内のみに留まらず、戸外にスケッチに連れ出すなど、柔軟な教え方をする絵画教室を開いたのだ。これは大当たりで、
70人余もの生徒が集まり大好評だった。 

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Wood Interior」(1909年) VAG所蔵, Emily Carr Trust

1907年の夏には、ロンドンにも訪ねて来た姉 Alice と共にアラスカへ3週間の旅を楽しんだ。ちょうど砂金の発見でクロンダイク・ラッシュに湧いていた時代であったため、船で同乗した一獲千金を夢見て集まる男たちを興味深く観察している。

以後、バンクーバーで教えている間、毎夏北への旅をして多くの先住民の村々を訪れ、トーテムポールにのめり込んでいくが、絵の対象としてこれを描くのはそう簡単ではなかった。
 
言葉を持たない先住民たちは、象徴的な模様を念入りに彫り、時にゆがみの手法を用いたりするなど、その方法は複雑で、神秘的な怪物や自然界の生き物を模したり、実際にあった話や想像を屈指したものを表現したりして作品を仕上げる。

形も大きさもさまざまで、太くて短いものや、とてつもなく背の高いものあり、家族の歴史を後世に伝えるための個人的なものから、種族全体に関係したものなどいろいろなのだ。
 

エミリーはこの時期を機に、失われていく先住民の文化遺産を描き記録していくことを決意するのである。 

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今もビクトリア市内には色鮮やかなトーテムポールがそこここで見られる 

先住民との接触で彼らから多くを学んだことを思い、誰がこの広大なカナダの森や空間を理解する助けをしてくれたただろうかと考えた。

だがそれは、サンフランシスコでもロンドンでもなかった。


では、当時、ニューアートの盛んなパリでは、いったい自分の絵をどのように評価するだろうかとの思いが沸々湧き、絵画の新たな動きを学ぶため、またしても欧州行きを決意するのである。 

バンクーバーでの絵画教室が順調だったことで、資金のやり繰りの目処が立ったころ、ビクトリアの家族に「パリへ行くために貯金しています」との手紙を送った。

しかしそれを受け取った家族は、「ロンドン行きは十分に強烈なレッスンではなかったのか」と、困惑の色を隠せなかったのである。



(次回に続く) 




 
 


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