今日2011年8月15日、日本は66年目の終戦記念日を迎えます。
この時期になると日本のメディアは、こぞって「戦争」に関するものを採り上げます。それは悲しく辛い戦争体験を風化させないために、これからもずっと続けて欲しいと願っています。
特に若い人々には、広島・長崎の原爆投下の事実も踏まえ、しっかりと学び記憶に留めて欲しいと思います。
唯一嬉しいことは、日本人にとって「戦争」は66年前の出来事であることです。いまだに戦いを強いられて、罪のない一般の国民が死んでいる国が世界には沢山あります。
残念ながら人間は、歴史から学ぶことをしないことが多いのです。となれば、少なくともその体験をした人々は、記録し、語ることで次の世代に受け継いで行くことが大切であろうと思います。
以下は私の母が、1995年に終戦50周年を迎えたとき、トロントに移住していたことで、「戦後50年と私」と題して、85歳だった母がカナダの日系新聞に書いた手記です。
父は、36歳で子供3人と義父母を残して、赤紙一枚で戦場に駆り出され戦死しました。そのとき母は34歳。その後の苦労は並大抵なものではありませんでしたが、何とか女手一つで家族を守りました。
縁あってこの母の物語を、後に娘の私が本にまとめ「カナダ生き生き老い暮らし」(集英社)と題して2000年に上梓することが出来ました。
母の子供時代の生活から、関東大震災、第2次世界大戦の体験、そしてカナダへ移住してからの生活、89歳で再度日本へ戻っての思い・・・・、一人の女性の紆余曲折の物語です。
ここに母の手記を挿入することが出来たのです。
母は2004年に亡くなってすでに7年も経ちますが、単行本から文庫本になった拙著を、いまだにお読みくださる読者がいることを有り難いことと思っております。
ちなみに拙著は、2年前の夏に日加友好80周年を迎えたことで、天皇皇后両陛下が来加された折り、一行の団長であった福田前首相を通してお二人にお渡し頂きました。
母の手記のページにスティッカーを付けましたが、両陛下がトロントからヴァンクヴァーに移動された後、女官のお一人が本入手のお礼の電話を下さいました。
最後になりますが、特にこのお盆の週末には、戦死された方々ばかりではなく、東日本大震災で亡くなられた多くの方たちの霊にも、心からの哀悼の意を表したいと思います。

戦後50年と私
終戦50年目(1995年)の手記
50年前の終戦記念日8月15日の関東地方が、雲ひとつなく晴れ上がった真夏の一日であったことは、終戦を語る人々の思い出の中によく出てくることです。
私もあの暑かった日は、正午の玉音放送を横浜の自宅のお茶の間で、姑と共にラジオの前に正座して聞きました。
今は誰でもが知っているように、あの放送は雑音が多く、また難しい言葉の羅列で、国民の胸にスーッと入って理解できるというものではありませんでした。
しかし「戦争が終わった!」と言うそのことは、もちろん誰にでもすぐに分かりました。「日本はとうとう負けたのか・・・」と言う切ない思いと共に「あー、これで空襲のサイレンを聞きながら、子供を背負い防空壕に逃げ込む日々から開放される」と安堵し、体の力が抜けるような気持ちを味わいました。
この夏の一年前、結婚して7年半だった主人は、赤紙とともに南の島フィリピンに送られていました。もちろん何の消息もなく−生きているのか死んでいるのかも知れず−人づてに最初はミンダナオ島に送られたと聞いておりましたが、その後セブ島に渡ったという噂もあり、本当のところは分からずじまいです。
軍人でもない一民間人だった36歳の主人は、家庭が裕福だったこともあり、趣味の油絵を勉強するために「戦争が終わったらフランスに行ってみたい・・・」などと、夢のようなことを言っておりました。しかし、それも実現しないまま、帰らぬ人となってしまいました。
出征したあの日のことは、今でも鮮明に脳裏に焼きついています。その時は同じ町内から主人の他にもう2人若い男性が召集されました。出発の朝3人は近くにある神社の境内に集まり、それぞれの家族が千人針のお守りを渡し、武運長久を祈りました。
その後、軍歌を歌いながら最寄りの駅まで見送りのため行列をして行くはずだったのですが、そういう大げさなことの大嫌いな主人は「先に行ってくれ」と言ったまま、すーっと姿を消してしまったのです。
私は一歳の次女を背に、6歳の長女、4歳の長男の手を引き、皆と駅までぞろぞろ歩いては行ったものの主人の姿は見当たりません。
どうしたことかと心配していましたが、汽車の出発時間も迫ってくることですし、見送りの方々もプラットホームに上がって来られました。私も一緒に上がって行きましたら、なんと主人は長いホームの先端に一人で立っていたのです。
戦争を心底憎み、自由人でありたいと願っていた主人のやり場のない思いが、そんな行動を起こさせたのかも知れません。軍律の厳しい軍隊の中で、その後どう生活したものかを考えると胸がふさぎます。
終戦の翌年、昭和21年(1946年)3月に、区役所を通して政府から正式な死亡広報が送られて来たときには「皆さんと一緒に出発しなかったからよ」と一人ごちたものでした。
同時に出征した町内の若者2人は無事帰還しましたが、桐箱の中の石一個と化した主人は、いったいどんな死に方をしたのでしょうか。目の前で死を確かめていない別れ方は、いつまでも中途半端は思いを引きずるものです。
横井さんや小野田さんなど、戦後何十年か経ってジャングルで生存していた人が生還するたびに「もしや・・」という思いに何度も駆られたものです。
戦後30年目(昭和50年・1975年)にフィリピン戦跡慰霊団に参加しました。主人が歩いたかもしれない島を巡り、まだまだほら穴に山と残るおびただしい数の遺骨を見たときは、本当に息のつまる思いを味わいました。これでは生存の可能性はないと痛感致しました。
しかし人間というのは、本当に悲しいときには涙は出ないものだということを、この主人の死によって私は身を持って体験しました。
政府から送られた遺骨代わりの石ころ一つが入った桐の箱を手にしたときは、涙より先に自分の肩にずっしりと掛かってくるこれからの生活と、混沌とした将来を思い「とにかく、しっかりとしなければ」と自分に言い聞かせました。「何があってもこの家族を飢え死にさせることはできない―」と心に誓ったとき、涙の一滴も落とす余裕はなかったのです。
家が焼かれなかったことが不幸中の幸いだったのですが、高価な家財道具の多かった婚家の品々やタンス一杯の私の着物は、育ち盛りの子供たちの食料に取って代わりました。でもその後、知り合いの農家の娘さんが私の着物を着ている姿を見たときは、実に奇妙な感じがしました。
また、今考えればとてつもなくおかしなことで信じがたいでしょうが、敗戦の後、進駐軍が上陸してくる直前はいろいろな噂が飛び交い、まるで鬼が来るとでもいうような騒ぎでした。
私は外国人の多い横浜で生まれ育ち、そのうえ女学校も英国人やアイルランド人のマダム(尼僧)が英語を教える横浜双葉学園であったため、本当にそんな流言飛語を馬鹿馬鹿しいと思ったものです。
そして女学校で夢中で勉強した英語のおかげで、その後私は、外国商社で仕事を始めました。終戦直前に舅を送り、姑とは25年間生活を共にして最期を看取りました。
戦後のどさくさで荒稼ぎする人も多いなか、女の細腕を頼りの生活は心細いこともたびたびでしたが、皆が健康であってくれたのが何よりと思っております。
進駐軍の手から初めて日本側に戻された横浜のデパートというものを「デパートってなぁに?」と不思議がる次女に「何でも売っているところよ」と言ったら「じゃあ、お父様を買ってきてよ」とダダをこねて私を困らせたものです。
その娘の住むトロントに移住して今年で18年が過ぎ、こちらの生活にもすっかり慣れました。日本のように物があり余る贅沢さはないにしても、生活に不自由しない適度な余裕を心から有り難いと思います。
そして、ここに来てからお知り合いになったご親切にして下さる多くの方々との繋がりは、85歳という人生の先が見えている者には、何にもましての財産と日々感謝しております。
主人と、また沖縄の高射砲部隊で弟をも戦死させたこの大戦の「私の戦後」は死ぬまで消えることはないにしても、あの軍国主義の日本がなくなったことは、一日本人として全く悔いがないことを最後に付け加えたいと思います。
宮松芳子記