エミリー・カーの波乱万丈人生 (1)


自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)
 
カナダのブリティッシュ・コロンビア州ビクトリア市にある生家を通し、たぐいまれな画家の生い立ちを追う


 
 episode 1
晩年のエミリー・カー Emily Carr in Her Studio with
1939年1月、 City of Victoria (PR73-4962M00666) 
(National Gallery of Canada,Vancouver Art Gallery,Douglas & McIntyre共同出版の表紙より)




春から夏にかけての観光シーズンを迎え、別名「ガーデン・シティ」と呼ばれるのに恥じないBC州ビクトリア市は、すでに街中の花壇に花が咲き乱れ、ツーリストを迎える準備に大忙しだ。

4月末には早くも2600人を乗せた大きなクルーズ船が到着した。これから夏にかけては、カナダドル安の影響もあり、こうした大型客船だけでも230艘、510万人ほどがビクトリアを訪れる予定という。

ビクトリアは小さな街ながら、観光スポットは幾つもある。そのハイライトの一つが、ダウンタウンから徒歩でも行けるエミリー・カー(以下エミリー)生誕の家である。 

episode 1
エミリー・カーの生家と前庭 

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生家の前の通りは昔、こう呼ばれていた。その名残り 

折しも、オンタリオ州トロント市のダンダス通りにあるアートギャラリー・オブ・オンタリオ(AGO)では、「From the Forest to the Sea : Emily Carr in British Columbia」と題する展覧会が8月9日までの予定で開催されている。(http://www.ago.net/emilycarr 

この展覧会は、昨秋英国のロンドンでも同名の作品展が開かれた。最初、ロンドンっ子たちは「Emily Who ?」と言っていたが、幕を開けた途端に人気に火がつき、開催が1週間延期となったほどだ。 

episode 2
2014年秋に英国ロンドンで開催した展覧会のカタログ本 

画家であり、晩年には作家として興味ある幾つもの作品を残しているエミリーは、当然ながら、カナダではとみに知られているものの、日本での知名度は残念なことにイマイチの感があることは否めない。 19453月に73歳で亡くなったこのアーティストの生涯は、波乱万丈に富み、知るほどに興味が尽きない人生を送った女性である。 

AGO
での展覧会に足を運んだり、あるいは今夏、ビクトリアのエミリーの生家(https://www.emilycarr.com/)を訪れたり、バンクバーのArt Gallery of Greater Victoriahttp://aggv.ca/, Vancouver Art Galleryhttp://www.vanartgallery.bc.ca/index.html)で更なる作品を見る機会があるなら、彼女のバックグラウンドをより知ることによって興味も一層深まることだろう。 

その一助になればと思いビクトリアの地から「エミリー・カーの物語」をお送りする。
 
                     
 
家族
亡くなってから今年ですでに70年たつ画家であり作家だったエミリー・カーを語るには、まず、その生い立ちから紹介しなければならないだろう。 

名前からも判断できるように、エミリーの両親は英国からの移住者であった。しかしビクトリアには本国から直接来たわけではない。父親(Richard)は、若い頃、ゴールドラッシュ景気に沸く米国カルフォルニアに行き、波に乗ってのビジネスでかなりの資産を作ったと言われる。その後、英国に戻りエミリーの母親(Emily =娘と同名)と結婚している。 

episode 1





 
父親 Richard

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母親 Emily

一説によると、母親は婚外子として生まれたといわれており、当時そうした環境での出生の場合、北米に送って家族関係から引き離す風習があった。そのため、彼女も一時的にアメリカに行ったこともあったが、二人の出会いは英国で近隣同士だったとか。出生のことは承知でリチャードは18歳年下の妻エミリーと結婚し、今度は二人して再度カリフォルニアに渡ったのである。 

そこで彼女は娘2人(1856年にEdith1857年にClara)を出産。その後、一度英国に戻り2人の息子を産んだものの生後数日で亡くしている。そして3年後には家族でカナダ・ビクトリアに移住し、3人目の息子を出産したが、やはり5カ月で死亡した。 

この時点で息子3人はすべて亡くなってしまったわけだが、以後、Elizabeth1867年)、Alice 1869年)、Emily1871年)の3人の娘に恵まれた。女の子たちは無事に成長したものの、娘エミリーが4歳の時に生まれた弟 Richard1875年)は後に23歳で夭逝(ようせい)した。 

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Richard Emily 

当時は子だくさんである一方、幼児期の死がまったく珍しくなかったのは、カナダに限ったことではなく痛ましい限りだが、母親は結婚以来20年ほどの間に9人の子供を産み続けたことになる。 
 


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姉妹5人(1888年)。右下が五女 Emily、(時計回りに)四女 Alice、三女 Elizabeth、長女 Edith、次女 Clara  (Five photos above are at Emily Carr’s House)
上記の写真4枚はエミリー・カーの生家にて)


こうした家系に生まれたエミリーは、家族の中では上から8人目、下から2人目に当たるわけで、生き残った5人姉妹の長姉(Edith)とは15歳の年齢差があった。 

非常に躾(しつけ)の厳しい母親ではあったが、50歳で亡くなった時、エミリーは14 歳(カー家の墓石の齢。自伝には12歳となっている)の多感な年頃であった。母への思慕は深く、残された著書によると「母はいつも静かな女性だった。子どもにさえも少々はにかみやだった」と書かれており、「もし母が、もっとガミガミとうるさかったり、静か過ぎたり、もっと指図をする人だったり、愛情を注がない人だったとしたら、私にとって文句のないいい母親とは言えなかっただろう」と温かい思い出を持っている。 

一方、父親は、鉄のように不屈な意志を持った人だったようだが、妻の従順で辛抱強い、それでいてしっかりと押さえどころを知っている存在があっての一家の長であったようだ。
姉妹の中で父親に一番可愛がられたのはエミリーで、また絵の才能をいち早く見つけたのも父親であった。 

ある日、焼けた木炭を使って彼女が犬の絵を描いた時、父親は「Um!」と言っただけだったが、のちに見つかった書類の間に挟まれていたその絵の片隅には「エミリー、8歳」としっかりと記されていた。しかし強靭(きょうじん)な精神の持ち主だった人も、妻が50歳で亡くなった時の落胆ぶりは大変なもので、その後は孤独感にさいなまれ、2年後、70歳で妻を追うように昇天した。 

外から見れば、父親を長として仲良くまとまった家族に見えたことは疑いの余地がない。5人の姉妹たちはそれぞれの個性を持って元気に生き抜いたが、その中でただ一人、次姉の Clara だけがエミリーが10歳の時に結婚している。

夫は英海軍に勤める技師だったが、のちに5人の子供を置いて失跡してしまった。この出来事は特に三女の Elizabeth に多大な悪影響を与え、結婚に対し非常に懐疑的になったと言われる。加えて同じ理由かどうか定かでないが、他の4人姉妹も一度も結婚をしなかった。 



独り立ち
両親が亡くなってから残された5人姉妹と息子一人の暮らしは、金銭関係のことは知り合いの保証人が引き受け、家庭内では長姉の Edith にゆだねられた。

彼女は、母親譲りのしっかりとしたしつけを妹たちにほどこそうと試みたが、自由奔放なエミリーにはたびたび手を焼いたようだ。我慢が尽きると鞭(むち)で容赦なくたたき「かわいそうなお母さんはあなたを置いて死ぬのをとても心配していたのよ。他の子どもたちは良くわきまえて行儀がいいことを知っていたから満足していたけど、あなたは違うのよね!」と言い放ち、エミリーを精神的に打ちのめした。 

その反抗期には、乗馬で自然の原野が広がる郊外へ出かけることによってエミリーは傷ついた心を癒やした。だが、これは後に彼女の終身の絵のテーマとなった広大な森、吸い込まれるような大空などの原風景を余すことなく身に感じた体験で、「私の作品を生むまさに土台になる所だった」と言っている。 

折り合いがうまくいかない厳格な姉の支配から逃れるには、家を離れることだと決心したエミリーは、19歳になる直前の1890年晩秋に、サンフランシスコで絵の勉強をしようと決心し、一人旅立つのである。下宿先は、昔ビクトリアのカー家に半年ほど住んでいたことのある家族の家に滞在することで長姉を説得したが、エミリーはこの人々にもいろいろと気をもませることが多かった。 

だが、サンフランシスコ美術学校では絵の勉強に専念するかたわら、いろんな国から来た多くの学友たちと交わり、刺激的な出会いを体験するのである。家族、特に長姉の仰圧から開放され、のびのびと学び、大きく成長した時期でもあった。 

当時のサンフランシスコの町の様子、そこに生きる人々の生活などが、人生の後半で文章をつづるようになってから記した「Growing Pain」という書物の中には実に生き生きと語られている。

いろいろなことに興味を示しながらも、しかし、生まれ育ったクリスチャンとしての宗教的なバックが、画材の裸体に対する思いをどのように受け取ったかを書いた個所などは興味深く、今の時代に読むと笑いさえ込み上げてくる。

 
それは「Difference Between Nude and Naked 裸体と裸の差)」のエピソードに書かれている。「私の家族は非常につつしみ深かかったため、それはまるで暗い部屋で入浴する時でも水着をつけるに等しいようなものだった。彼らの考えている美というものは、衣服の下の生きた人間の体にあるのではなく、それを包む衣類だったのだ」とある。 


結局、サンフランシスコには2年半滞在したが、この間に厳格な長姉の Edith が妹2人と共に1年もの長期にわたって訪問するなどの出来事もあったものの、エミリーは絵の勉強には熱心で、いろいろな思いを乗り越えて生活した。 

しかし当時のアメリカ西海岸の文化には、芸術を生みそれをはぐくむ潤沢な風土はなく、エミリーがカナダに帰国した時に持って帰った作品は、彼女自身も「退屈極まりなく感情の表現に乏しいものだった」と認めている。つまり非常に基礎的なことを学んだに過ぎなかったのだ。 

episode 1
▲1890-1893年ごろの作品「Wild Lily」(On deposit at Art Gallery of Greater Victoria from the Collection of the sisters of St. Ann, Victoria BC: Gift of Emily Carr in Memory of Elizabeth Carr 
(ただしこの写真は生家の庭に掲げられているもの)

帰国してからは絵画教室を開き子どもたちに教えていたが、当時のビクトリアには絵の展覧会などはなく、わずかに農産物などの品評会が行われる際に、絵画のコーナーを設けて出品するくらいのものであった。 

そんな鬱屈(うっくつ)した生活を送っていたある日、フランス人の画家と出会った際に「カナダの風景は絵にならないし、絵画を学ぶ場所はパリかロンドンだ」と言うのを聞き、また友人がヨーロッパで勉強していたこともあり、更に絵の勉強を極めるためにロンドンに行く夢をはぐくむようになって行った。 

一方エミリーは、少女の頃からアメリカ大陸の北西部に住んでいる先住民の世界に魅せられていたといわれるが、当時、この島での彼らの人口は白人と同じくらいだったようだ。

幼少の頃から日々の生活の中で、白人の家で働いたり、小さな果物や肉などを売り歩く彼らの姿を見ていたが、初めてバンクーバーアイランドの西海岸に位置する先住民の住む
Ucluelet(ユクルーエット、トフィーノの南=サーフィンなど海洋スポーツの名所として知られる)へ出かけたのは、サンフランシスコから戻って数年たった1898年で、この旅で初めて先住民を作品として描いたのである。 

ロンドン行きの夢はありながら、特にこの時期には西海岸の広大な自然の中で、彼女の一生のテーマとなる船や家など形のあるものを描き、その素材を使うことが出来るチャンスがある時のために作品のモチーフを蓄えていたという。


(次回に続く) 





 


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