エミリー・カーの波乱万丈人生 (2)

自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)

初めてのヨーロッパ(英国)に絵の勉強に行くが、しかし病をえて帰国

 
 

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エミリー・カーの生家前の案内板 


イギリスへの旅
この時までのエミリーの絵は、普通の美術学校でのカリキュラムに基づくもので、一般的な静物画、肖像画などが中心ではあったものの、段々と純粋な風景を中心とする方向へと傾いても行った。また同時期には、詩を読む楽しみも生活の一部になっていたようだ。 

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静物画「メロン」1892年、サンフランシスコでの作品 1899  (BC Archives and Record Services: Catalogue PDP 650)
 
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風景画「Cedar Canim’s House,Ucluelet 1899  (BC Archives and Record Services: Catalogue PDP 2158)

そして1899年には、絵画教室からの収入をロンドン行きの旅費に蓄えたことで、それまで長い間秘めていた思いを吐露し「私、ロンドンに行くわ」と周囲に告げたのである。

もちろん絵画の道を極めるのが目的であった。その旅の始まりは、東海岸から大西洋を渡る船に乗るまでの、大陸横断の寝台列車から始まった。
カナダの余りの広さに息をのみ、ロッキー山脈の起伏やその頂上に雲がかかる様子に心を躍らせたが、それらはまさに、エミリーの持つ生来の自然への思い入れそのものを、自身の目で確認するものだった。
 

サンフランシスコと今回の旅との大きな違いは、アメリカという新興国へ行くのではなく、古い伝統と歴史のある欧州(ロンドン)への旅であったことだ。
10日間の航海中からすでに、興味深い船客との出会いを体験しながらやがてロンドンに到着。 

折しもイギリスは、ビクトリア女王時代の終焉(しゅうえん)を迎えた時で、亡くなった女王の柩(ひつぎ)の葬列を見送る人々の様子や、長い伝統のある王室に対する庶民の思い入れも目のあたりにすることが出来た。

また、そうした国に住む堅実で厳格な人々との交わりは、新生カナダでの生活からはほど遠いことを感じながら、「旧世界」との出会いを興味深く観察している。
 

しかしここでの生活は、カナダと同じように国として浅い歴史を持つサンフランシスコでは体験しなかった「植民地からきた人間」という、軽べつ感を感じさせられることも多かった。 

まず、入学することになったウエストミンスター美術学校の受付で、「(カナダの)西海岸ではスターでも、文明国で競争するのはかなり大変よ」などとあからさまに嫌味を言われショックを受ける。

また入学後、実技クラスで初めて女性のヌードをデッサンする時には、モデルの裸にドギマギしながらも、その肉体の美しさに息を飲み羞恥(しゅうち)心が一掃された。

サンフランシスコでも似た経験をしたが、これは肉体はみだらで隠すべきものであって「美しいもの」として教えられなかったためだが、改めてここでも驚きを隠せなかったのである。
 

ロンドンに来て一年目には、エミリーが一番好きな姉(Alice)が2カ月ほど遊びに来たことがあった。しかし姉は絵画には一切興味を示さず、作品を見ることも、それについて聞くこともしなかった。この出来事は、以後、家族に対し彼女の芸術への情熱を心の奥深くに押し込め、封印する決心をすることとなる。 

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イギリスでの生活を描いた素描 1901 (BC Archives collection, Royal BC Museum corporation, Victoria, PDP 6112, 6114, 6116, 6125)

もう一人記すべき訪問者は、エミリーに長い間思慕を寄せていた男性である。カナダにいた時にプロポーズした人で、3カ月の休暇を取り、わざわざロンドンまで彼女に会いに来たのだ。

伝記によると、その間に彼は毎週5回は「結婚しよう」と申し込んだようだが、その度にエミリーは「ノー」と言い続けた。
 

今、私たちがよく目にするエミリーの写真は、頭に網のボンネットをかぶり睨(にら)むような目でカメラを見返す晩年のショットが多い。だが、若い娘時代の素描や写真などは、意志の強さは紛れもなく感じるものの、目の大きい整った顔立ちであった。 

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晩年のエミリー・カー Emily Carr in Her Studio with “Sunshine and Tumult, 1939年、 National Gallery of Canada and Archives , Ottawa
(撮影: Harold Mortimer Lamb 1891- 1970)

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▲2122歳のころのエミリー・カー(BC Archives collection, Royal BC Museum Corporation, Victoria)  

この男性は、エミリーがカナダの先住民の村を訪ねた時に乗船した船のパーサーだったとか。

プロポーズを断ったことをロンドンの下宿先の女性に話した時には、「なんてオバカさんなの! これ以上いったい何を望んでいるの? 王子さまを待っているってわけ?」と驚かれたが、エミリーは「誰も待ってなんかいないわ。私はロンドンに絵の勉強に来たのよ」と平然と答えている。
 

結果的に英国滞在は5年半になるのだが、最後の一年半ほどは種々のストレスが重なり、病魔に冒されてサナトリウムに入院するという悲劇を味わうことになる。

インフルエンザから気管支炎を発症しヒステリー状態にもなるなど、病状が悪化するに従い、医者からカナダに戻ることを止められてしまうのだ。
 

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生家に飾られている靴のレプリカ。ロンドンでは足の古傷が悪化し靴も履けないほどの大変な経験もする 



挫折と病魔
意気揚々とロンドンに行ったにもかかわらず、また、自らを鼓舞して芸術の深みをより探求したいという強い思いを持ちながらも、最後には挫折という負の思いを抱きながら帰国しなければならなかった彼女の心境はいかばかりであっただろう。

心身ともに打ちのめされていたものの、小康を得た折に医者からカナダに帰る許可が出たのは1904年であった。 

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イギリスのサナトリウムに入院中、ベッド脇でひな鳥を飼育していたときの自画スケッチ。動物好きなエミリーはいつも周りに生き物を飼っていた(1903年)( Clarke Irwin and Co.Ltd, Courtesy Stoddart Publishing Co. Ltd)

嬉しかったのは、心身共に落ち込んでイギリスを離れようとしている時に、BC州の内陸部にあるカリブー地方(http://www.southcaribootourism.ca/)に住む友人から「ビクトリアに帰る途中に、ぜひ私たちの農場に立ち寄って」との手紙を受け取ったことだった。

この招待は、異国でエミリーが味わった敗北感や、また故郷の人々に「ロンドン行きは失敗だった」と認めさせる結果になるのを少しでも和らげるという意味で、貴重な小休止になったのだ。

2カ月ほどの滞在中には、農場のポニーに乗って遠出をしたり、野原で雁の群れが餌をあさるのを細かく観察したり、またコヨーテの鳴き声におびえたりもした。しかしこの間は体力回復という目的もあって、絵筆を脇に押しやって制作を一切絶っていた。 

夫婦で農場を経営する友人は、エミリーとの再会を喜び温かく迎えたものの、「あなたはカナダを出た時と比べ成長も洗練もされてもいない」とか「目を閉じてロンドンを通過したんじゃない」などとあからさまに言われたりもした。

長い英国生活にもかかわらず、表面的には洗練されたとは言い難い、変化の余り見られないエミリーの様子に友人は驚いたのだろう。
 

カリブーでの休暇は体力を回復するのに確かに役立ったが、友人との再会は表向きは仲良しの古い友だち同士を装ったものの、離れていた年月はお互いを全く異なった方向に向かわせていたのだ。

二人の間に距離を感じずにはいられなかったエミリーには、「彼女はもう友達でも知人でもない」と心の底で思い知る結果になったのだ。
 

再び故郷へ
5年半ぶりに32歳で故郷のビクトリアに戻った時、いやが上にも知らされたことは、周りのすべてのものが自分と同じ年月だけの齢(よわい)を重ねていたことだった。

親しかった友人たちもそれぞれの道を歩んでいた。エミリーは誰も自分と同じ方向に歩みを進めることはないし、自分も他人の進む道に興味はないことを痛感し、以後、新たな友人関係を築くことに一生懸命にはなれなかったという。
 

元の生活に戻る日々の中では、時間の多くを牧羊犬を連れて馬に乗り、森に出かけては自然の中に身を置くことに費やした。そんな折、時にはロンドンの喧騒(けんそう)を思い出すこともあり、カナダの森との漠然とした類似点に気付いたりもした。

それは全く違う2つの場所ながら、とてつもない力や深さ、また強靭(きょうじん)さを持っていると感じるのだが、しかし一方、似ているのはそこまでとも思うのであった。
 

そしてあくまでも垂直に伸びている、冷たい樹液を湛える森の木々を両手で抱きしめながら、西海岸に戻ったことに心からの安堵(あんど)を覚えたのだ。

しかし残念ながら、ビクトリアには昔と変わらずに「芸術家」と呼ばれる人々はいなかった。だが、エミリーは絵画教室を開き、雑誌に挿絵を描く仕事をこなしたりしながら、Ucluelet(ユクルーレット)への再度の旅も試みている。 


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▲1909年に創ったカレンダー用のスケッチ。時にはこんな軽妙な絵も描いていた (BC Archives collection, Royal BC Corporation , Victoria PDP 6071,6078,6074)

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水彩画「Totem Walk at Sitka」(1907年) (The Thomas Gardiner Keir Bequest, AGGV所蔵)

そんなある日、友人に誘われるままバンクーバーに渡って、そこにある芸術クラブで上流婦人たちに絵を教える職に就いた。

しかし、彼女たちが期待したのは「ロンドンで数年間絵の勉強をして来たおしゃれな絵の先生」であって、エミリーはその対象にはならず、すぐに解雇された。             
 

もちろん彼女自身もそんな雰囲気に居心地の良さを感じるわけもなく、辞めさせられたことに喜びこそすれ、不満はなかった。

それをきっかけに今度は子どもたちを集め、室内のみに留まらず、戸外にスケッチに連れ出すなど、柔軟な教え方をする絵画教室を開いたのだ。これは大当たりで、
70人余もの生徒が集まり大好評だった。 

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Wood Interior」(1909年) VAG所蔵, Emily Carr Trust

1907年の夏には、ロンドンにも訪ねて来た姉 Alice と共にアラスカへ3週間の旅を楽しんだ。ちょうど砂金の発見でクロンダイク・ラッシュに湧いていた時代であったため、船で同乗した一獲千金を夢見て集まる男たちを興味深く観察している。

以後、バンクーバーで教えている間、毎夏北への旅をして多くの先住民の村々を訪れ、トーテムポールにのめり込んでいくが、絵の対象としてこれを描くのはそう簡単ではなかった。
 
言葉を持たない先住民たちは、象徴的な模様を念入りに彫り、時にゆがみの手法を用いたりするなど、その方法は複雑で、神秘的な怪物や自然界の生き物を模したり、実際にあった話や想像を屈指したものを表現したりして作品を仕上げる。

形も大きさもさまざまで、太くて短いものや、とてつもなく背の高いものあり、家族の歴史を後世に伝えるための個人的なものから、種族全体に関係したものなどいろいろなのだ。
 

エミリーはこの時期を機に、失われていく先住民の文化遺産を描き記録していくことを決意するのである。 

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今もビクトリア市内には色鮮やかなトーテムポールがそこここで見られる 

先住民との接触で彼らから多くを学んだことを思い、誰がこの広大なカナダの森や空間を理解する助けをしてくれたただろうかと考えた。

だがそれは、サンフランシスコでもロンドンでもなかった。


では、当時、ニューアートの盛んなパリでは、いったい自分の絵をどのように評価するだろうかとの思いが沸々湧き、絵画の新たな動きを学ぶため、またしても欧州行きを決意するのである。 

バンクーバーでの絵画教室が順調だったことで、資金のやり繰りの目処が立ったころ、ビクトリアの家族に「パリへ行くために貯金しています」との手紙を送った。

しかしそれを受け取った家族は、「ロンドン行きは十分に強烈なレッスンではなかったのか」と、困惑の色を隠せなかったのである。



(次回に続く) 




 
 


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