エミリー・カーの波乱万丈人生 (3)

自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)


フランスで絵画を学び帰国、だが困窮の日々は続く
 

episode3          
▲BC州ビクトリア市ダウンタウンのビクトリア・ハーバーを望める場所に建つエミリー・カーのブロンズ像(正面と後姿)
肩に乗っているのは可愛がっていた猿のWoo、彼女の周りにはいつも動物がいた。

フランスへの旅
再度の渡欧の決心に家族は困惑し心配したものの、エミリーの決心は固く、今度はフランス語のわかる姉の Alice と共に出発することになった。

途中、苦い思い出のあるロンドンは急ぎ通過し、ドーバー海峡を渡り、美しい田園風景の広がるフランスの田舎を滑りぬけパリに到着した。
居を構えたのはモンパルナス地区であった。
 

時は1910年。ヨーロッパではフォービスムのマティスやルオー、キュビスムのピカソやブラック、アールヌーボーのクリムトやガウディなどが前後して活躍していた時期であった。

エミリーは世に言う「ニューアート」が何であるかを発見したいとの思いが強かった。と同時に、自分の作品がどのように評価されるかにも興味があった。
 
 
 勧められるままにある美術学校に通い始めたものの、フランス語を理解しないエミリーには、自分の作品を教師がほめているのか、あるいは非難しているのか最初のうちは理解できなかった。
しかし持ち前の前向きな頑張りで懸命に学ぶ努力を惜しまなかった。
 

だが、余りにも根をつめての制作の日々に疲労困憊(ひろうこんぱい)し、ここでもまたロンドンと同じように、病魔に襲われ3カ月ほど入院する羽目になった。
医師からは大都市を離れなければ死に至るだろうと言われ、姉の
Alice と共に療養のためにスウェーデンに行く決心をする。 

カナダに似た風景が広がるスウェーデンへの旅は楽しかった。

熱い塩湯に入ったりするなど、ゆっくりとしたことが効をなしたのか、春にはフランスに帰ることが出来た。
姉はパリに戻ったが、エミリーは同行せず、クレシーというパリから2時間ほどの郊外に行き、以前パリで通ったアトリエの教師が設立した新たな教室で風景画などを学び始めた。

 

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フランスでの水彩画「Brittany Coast」(1911年) (AGGV所蔵 Gift of Major H.C. Holmes)


この教師は、最初とても気難しそうで取っ付きにくく、芸術面で女性が男性と競うことを快く思わなかった。

だがある日、エミリーが習作を壊したのを見て「君に教えるのはだから好きなんだ。何かもっと良いものを見つけるために、いつも一番いいものを壊してしまうんだから」と言った。

また自分の絵を他の生徒には見せるのに、エミリーには見せなかったりすることに不満を言うと、「他の学生はまだ将来何になるか決めていない。でもあなたは、すでに女流画家の一人になる積もりなのだから私の作品に影響されてはいけない」と彼独特の褒め言葉でエミリーを励ました。

 

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フランスでの油絵習作「無題」(Hillside in France)1911年)(AGGV 所蔵、Flora Hamilton Burns Bequest)
 
 
しかし、エミリーが息抜きもせず常に貪欲(どんよく)に絵の勉強に専念するのを見て、「もっとおしゃべり、おしゃべり、おしゃべり」とリラックスすることを説く。

それに対しエミリーは、フランスでの滞在が限られていることを伝えたのだが、教師は「あなたの国の無口な先住民たちの方が、ここにいる持って回った芸術のたわごとを言う人たちよりも、もっと多くのことを教えてくれるだろうよ」と言うのだった。
そしてその年のサロンドートンヌ展に、彼女の二つの作品が展示されたのをとても喜んでくれた。
 

その後、教師夫妻がブルターニュに転居するのを機に同行し、都会から離れた田舎で野に出ては習作に励んだ。
エミリーはその地で彼女独特の心のこもったアプローチで人付き合いをし、近くの農家の人々、特に子供たちと仲良くなり、牧歌的で心温まる暮らしを存分に楽しんだのだ。
 


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フランスでの油絵習作「Brittany」(1911年)(McMichael Canadian Art collection, Gift of the Founders, Robert and Singne McMichael)  


この14カ月にわたるフランス滞在で、エミリーはフォービスムや水彩画を学び、1911年にカナダに戻ったのである。 

バンクーバーでの生活
イギリスからカナダに帰国した時に比べ、フランスからの場合は心身ともに強靭(きょうじん)になっており、視野も広がり、教師として教えること、あるいは自分自身の勉強に関しても次のステップに行く準備が出来ていた。 

だが、広大な西部の自然とどのように向き合うかになると変わらずに困惑し、またビクトリアも以前と同じように、芸術を育(はぐく)み絵画の制作をするには不毛な土地であることを再認識させられた。

そこでバンクーバーに行ってアトリエを開き、フランスでの作品の展覧会を催した。しかし、来場者は壁に掛けられた作品に、目をつり上げて驚きのまなざしで眺め、そして笑った。 

彼らは木を見て森を見ることが出来ず、批評家は「カメラのようにすべてを写し出す表現方法をよしとする」と言い、細かい部分が描かれていないエミリーの作品に混乱し、怒りを露(あらわ)にした。

中にはアトリエに用もなく入って来ておしゃべりはするものの、壁の絵には目もくれようとしない友人もいた。
 


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フランスでの油絵習作「Autumn in France」(1911 年)(McMichael Canadian Art Collection, gift of Dr. Max Stern, dominion Gallery, Montreal 


しかしエミリーは、彼らが作品を理解できなくても、それによって傷つくこともなく、自分の画法は風変わりでも過激でもなく、また奇怪でも下品でもないと信じていた。

だがカナダ西部の人々は、パリでの習作は単に注意を引くために異常な指向に走っていると取っていたのだ。
 

新聞の記事が屈辱的でも、また人々にあざ笑われても、エミリーはフランスに行ったことを後悔することはなかった。

それよりも、古い画法ではこの国の広さや深さや高さを、また侵すことの出来ないほどの静寂さを表現することは出来ないと確信していた。


一千万台のカメラを用いても本当のカナダの自然を表現することはできない、何よりも生きた心で感じ、それを愛さなければならないのだと。 

だが西部カナダの人々は超保守的で、一世代や二世代前にカナダに移住した時の価値観をそのまま維持していた。彼らは保守的な本国のイギリスでさえ、ゆっくりと前進していることに気付かず、古くてすたれたものに固執していたのだ。 

アトリエの生徒は数えるほどしかいなかったため時間は十分にあった。だが彼女は時間を無駄にはせず、スケッチをするためによく北方に出かけた。

そして自分でも自身の絵の成長に気づくようになっていた。
 

先住民の村々も訪ね、トーテムポールの絵をますます描くようになり、彼らとの交流を深めていく。
おそらくフランスから帰国後に味わったバンクーバーでの疎外感の反動が、この時期に先住民との親密感をより深めて行ったのではないだろうか。


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Tanoo, Queen Charlotte Islands (1913) (BC Archives collection , Royal BC Museum Corporation, Victoria 所蔵)


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Memalilaqua, Knight Inlet」(1912年)(National Gallery of Canada, Ottawa所蔵) 


だが絵も売れず、生徒もほとんど集まらないアトリエを維持することは難しく、閉鎖することを余儀なくされ、ビクトリアに戻る以外に道がない羽目に陥ってしまう。
 
姉妹たちもエミリーの新しい絵を嫌い、新画法で絵を描き通すことを「狂っている」と非難した。

彼女たちは「生徒は来ない、絵は売れない、飢えるだけよ。旧来の画法に戻りなさい!」とうるさかったが、エミリーは「私は飢えた方がよっぽどいいわ」と突っぱね、「古い描き方は死んでいて意味がなく空っぽ」とやり返した。


家庭内でのエミリーは孤立無援で、急進的な画法は家族の不名誉とさえ考えられてしまった。 

ボーディングハウスの女主人
しかし何はともあれ、生活をしていかなければならない。

一時は父親が残した広大な土地があったが、町の区画整理で分割されていた。税金の高騰も手伝って土地を売り、姉妹たちはそれぞれに与えられた自分の土地を所有し維持することになった。
 

エミリーは、借金をして4部屋ある「Hill House」と呼ぶボーディングハウスを建築し、家賃で生活のめどを立てようと計画した。

そうなれば絵も自由に描けると踏んだのだろう。二階にはアトリエとして採光が入る窓が幾つもある一部屋を設けている。
 

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ビクトリア市 646 Simcoe Streetに今も残る建物。アトリエ用に窓の多い部屋を二階の端に造った 



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裏庭からの眺め。この家は現在の家主が手を加えているとは思えない状況で、残念ながらだいぶ荒れている


 時は第一次世界大戦(19141918)ぼっ発の時期。
戦争に行った人々に代わって、職を得ようとする荒くれた人々が町に流れ込み、ビジネスには未熟な女主人につけ込むことも多かった。

家賃からの収入だけでは一軒家の維持は十分でなく、エミリーは家計のやり繰りのためにあらゆる仕事をしなければならなかった。
 

例えば、除隊した兵士の慰みになるという牧羊犬イングリッシュ・ボブテイルの子犬を一時は350匹ほども飼育したり、焼き物用の窯(かま)を作って陶器を焼き、そこに先住民のモチーフで装飾を施したり、また敷物を作るなどして乏しい家計を補うことに必死であった。 



先住民のモチーフを描いた壁掛け陶器や針刺し(1924-1930年) (Vancouver Art Gallery, Bequest of Alice Carr, Victoria 1951)


この間には、1919年に長姉(Edith)と次姉(Clara)が相次いで亡くなっており、エミリーは自分が芸術家であることなどは、ほとんど忘れるくらい日常生活の雑用に追われる日々を送っていた。

それでも時には、女性向けの雑誌に挿絵(さしえ)を描く仕事を引き受けたり、また通信教育でショートストーリーの書き方を習う「文章作法」のコースを受講したりもしていた。

おそらく、殺伐(さつばつ)とした日々を送りながらも、心のどこかに多少なりにも潤いや慰めを求める気持ちがあったに違いない。


そんな日々の1927年のある日、オタワにあるカナダ国立美術館から一本の電話が掛かって来た。

この出来事がエミリーのその後の運命を大きく変えることになるのだが、もちろんその時の彼女はまだそんな事を知る由もない。


用件は、国立美術館で西部カナダの先住民の絵画展を開催したいので、絵を出品して欲しいとの要請であった。当然ながらエミリーは驚愕(きょうがく)した。

その頃の東部では、「Group of Seven(G7)」と呼ばれる7人の男性アーティストが台頭しており、カナダの絵画界の大改革を行なっていたのである。

しかし、生活に追われていたエミリーは、彼らの存在も、またカナダに国立美術館があることさえも知らなかったのだ。
 

やがて絵の下見に来た国立美術館の人に、東部における芸術の最新事情を聞かされ、さらには、トロントやオタワに出向き、この7人の画家たちに会うことを勧められた。

余りにも唐突ながら久し振りの刺激的な話に、忘れていた絵画への情熱が再燃し、すぐに東部に出向く決心をした。
 

今は2人だけになってしまった姉たちに相談したところ、意外にもすんなりと「行けない理由は何もないじゃない」と快く賛成してくれた。
その上に、留守宅のボーディングハウスなどの世話も引き受けることを約束してくれたのだ。
 

さあ、55歳のエミリーの運命はここから大きく転換するのである。 

(次回に続く) 








 


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