イタチごっこ?‐再度ビクトリア市のホームレス問題

 私の記憶では、COVID-19についてカナダ政府がそれ迄よりも真剣味を見せたのは、トゥルードウ首相の妻Sophie Grégoire Trudeau夫人が、夫と共に招待された英国での講演会から戻り、陽性反応を示してからだったように思う。

 

  

 

それは3月13日のことで、もちろん彼女はすぐに2週間の自主隔離に入り、夫のトゥルードウ首相も官邸の執務室から一人で日々の実務を執り行った。

 

 

 これを契機にオタワの姿勢に「対岸の火事ではいられない」とした緊張感が走ったようだ。

 

 この雰囲気はBC州でも同じで、特に当時のビクトリア(以下V)市民の反応には、それほどの切迫感はなかった。

 

 すでに多くの感染者、死亡者が出ていたヨーロッパ旅行から戻ったある夫婦は、帰国の翌日に遠来の客に会い、あまつさえレストランで食事さえしたのである。

 

 その後夫妻は高熱や多汗症状を呈したが、親しい医者との緊密な連携のもとで3週間半の自己隔離を終えた。しかし彼らは「毎年今頃は花粉症になるので」と言い、コロナの陽性であったかどうかは分からないと弁明する。

 

 ことほど左様に当時は「本土とは海峡を隔てているから大丈夫」と楽観視するV市民は多かったのだ。

 

 それからの二ヶ月半の間に、数々の規制が設けられたのは周知の通り。中でも「2m間隔」の決まりは、常に海風の吹く海岸を歩く際にも、前後左右から来る人々を避けて通るようになった。

 

 まだこの社会的制約に慣れていなかった当初、私は自分が東洋人だからそうされるのでない事は十分承知してはいても、その度に真珠湾攻撃で第二次世界大戦が勃発した直後の日系人に思いを馳せた。

 

 容姿が西洋人でないことで接近することを避けられ、時には「JAP!」とののしられながら、嫌がらせと差別を受けたのではないかと・・・。

 

 その後COVID-19の取り締まりが日に日に厳しくなる中、私の心に掛かったのはダウンタウンのQuadra St.Vancouver St.にあるホームレス互助機関Our Place周辺に増え続けるテント生活をする人々であった。

 

Our Place前の通常時の風景

 

 記憶にある読者も多い事と思うが、2016年にBC州裁判所の裏地に出来たTent Cityが、市の大問題に発展した事がある。

 

 周辺の住民からの苦情は、不衛生な状況下で生じる害虫、ネズミ、トカゲ、蛇などばかりではなく、昼夜を問わずの騒音、暴行、売春、麻薬売買や薬物の過剰摂取問題などが後を絶たず、さながら不法地帯になってしまった感があった。

 

2016年にBC州裁判所の裏に出来たTent City。これは初期の頃のテントで終了時にはこの倍に膨れ上がった

 

 最終的にはBC州政府、V市、関係互助機関が幾つもの既存の建物を改築したり、低所得者用のアパートを建築したりして、裁判所の裏からホームレスの姿は消えた。

 

今は整備され遊園地に変身した

 

 跡地は1m以上土を掘って土壌を入れ替え、今は子供の遊園地に衣替えしている。当時私は何回もここに通い彼等の声を聞き記事にしたが、当然ながらその一人一人にそれぞれの物語があり、一括りに出来る問題でない事を痛感した。

 

 そして今回はCOVID-19の「2m間隔」規制に源を発し、4年前と同じように数々のテントがOur Place周辺とMayfair Shopping Centre近くのTopaz Parkに出現した。

 

日に日に増えて行ったOur Place前のテント群


Topaz Parkに広がったテント群

 

 つまり2m間隔規制のため、それまでのように各種のシェルターに寝泊まりする人数が限られるようになったため、町から人影が消えたのに比例して、テントの数が日に日に増大して行った。

 

 当然ながら周辺の市民からの苦情は絶えず、V市とBC州政府は必死になって解決に奔走し、メディアもそのニュースを追い続けている。

 この原稿を書いている525日現在の結果から記せば、520日を一応の目途に、両領域から彼らを一掃する大作戦を展開した。

 

 まずは州政府が市内のComfort Inn and Suites (3020Blanshard St)を$18.5ミリオンで買い上げ92人を収容し、ホッケイー・アリーナのSave-On-Food Memorial Centreに簡易の囲いとベッドを設け45人を移動させた。

 

Our Place前のテントは一応消えて、今は鉄条網だけが残されている

 

 また今までシェルターとして使用していた幾つかの場所にも、人と人との間隔を置いて何人かを継続的に収容している。こうした施設には常時医療関係者や彼らの間で一番問題である薬物の管理をする人々を置き、食事も提供する。

 

 加えて長期的な計画として、低コストのアパート建設のためにOur Place近くの土地を、約$9.6ミリオンで購買してもいる。

 

 だがこのようにして政府が用意した宿泊施設には行かない(行きたくない)テント住民が、今度は海岸沿いやBeacon Hillの広域に増加し、V市は625日迄期限を延長して策を講じことにしている。

6月上旬の今 Beacon Hill Parkにはそこここにこうしたテントが幾つも張られている。

 

 市民の憩いの場である筈の公園が、またたく間に次のTent Cityに化すのではないかとの懸念があり、それによるウィルスの拡散も心配される。

 

 こうなるとまさに『イタチごっこ』の感があるものの、ホームレスの解決は世界のどの町も抱える共通の問題である。

 

 彼らにきちんとした宿泊施設を提供するのは最重要課題である事は言を待たないものの、それだけではホームレス問題は解決しない。その後彼等をどの様にして社会復帰させるか、次に来る大きな課題である。

 でなければ、何時まで経ってもホームレス問題は「いたちごっこ」で終わってしまう。

 

 最近耳にしたイタリア・フローレンス市郊外にある、薬物の過剰摂取からの立ち直りを念頭に置いた更生施設のウェブサイトを紹介しよう。https://www.sanpatrignano.com/

 立ち直り後の職業訓練も行い、一人の入居者を最後まで面倒を見ようとする姿勢が伺える。

 

 西海岸ではバンクーバー市、V 市の多くのホームレスが、薬物過剰摂取で過去4年間に5000人程が死亡している。路上生活になったから薬物を使用するのか、或いはその逆かは定かでないが、この施設が大変に興味深い取り組みをしていることに感銘を受けた。是非一見をお勧めする。

 

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 これは全くの余談だが、カナダ政府がいち早く設立したCanada Emergency Response Benefit (CERB)は、仕事を失った人々(フリーランス含)への補助金制度で、一人当たり一ヶ月$2000.00貰えることになった。

 

 だがこの恩恵に預かれる人の対象が、真にカナダ的というのだろうか実に鷹揚で、以前一ヶ月間にそれだけの収入を得ていなかった人、またコロナが直接の原因で職を失ったわけではない人でも、申請さえすれば銀行に自動振り込みになるのだ。

 何時の時もそうであるように、制度を悪用する人も多いとのことで、今後税務署はそうした人の摘発に時間を取られると言う。

 

 この補助金制度は、アルバイトでもOKで、そのことに感謝するあるワーキングホリデイ―でトロントに滞在する女性(千葉出身25歳)からの投書が過日朝日新聞に掲載された。

 

以下抜粋:

 

 『 去年5月からワーキングホリデー制度を利用しカナダ・トロントの飲食店でアルバイト。3月から営業はテイクアウトのみで一時解雇された。

 

 この先をどうしようと考えていた矢先、政府から緊急対応給付金(CERB)が発表された。失職した人に月額約16万円(2000カナダドル)、最大4カ月間給付で、申請方法はいたって簡単。オンラインで質問項目に答えていき、後日、郵送でパスワードをもらって再度質問事項に答え、受理を待ちます。私の場合、その後3日ほどで現地の口座に入金されていました。4月8日のことで、一時滞在中の外国人労働者の私が政府から給付金をもらえたことに驚いた』

とある。

 

 

 この支給期間は、最初は向こう4か月の予定だったが、5月中旬には更に二ヶ月延長され合計6ヵ月間になった。

 

  日本は一人10万円を支給すると政府が決定した。もちろんないよりはましながら、仕事を解雇されたり、客足が途絶えてビジネスが破産した人々はこれ位の額で何が出来ると言うのだろうか。

 

  横浜に住む友人の話では、5月29日現在まだ支給されていないと言う。5月23日付けの毎日新聞に発表された世論調査によると、安倍首相の率いる内閣の支持率は27%、不支持率が64%となっている。

 

 また6月7日の日経世論調査では支持38%、不支持51%と出ており、益々地に落ちる安倍内閣ではある。

 

沢山出回っている顎まで隠れるマスクではないのを頑固に付け続ける安倍首相

 

 

 

 

 

 

 


映画「主戦場」鑑賞記

永遠に続く終焉をみない対立問題

 

 「いつか必ず観たい!」、そう思っていた『主戦場』と題するドキュメンタリー映画が、二月半ばのVictoria Film Festival(VFF)で上映されることを知った時、私は切符発売開始の日にオンラインで購入した。

 

 今や世界の多くの町で上映されている作品で、第二次世界大戦中に日本軍によって組織された慰安婦問題をまとめた話題作である。

 上映当日の映画館の客層は、カナダ人の老若男女が大半を占めていた。予想したことではあったが、いわゆる日本からの移住者とおぼしき人たちの姿はほんのチラホラで、彼等の感心の薄さを物語っていた。

 

 一般の日本人としては、この問題が何時までも蒸し返され世論の対象となることに居心地の悪さを感じる人は少なくないだろう。ましてや、カナダという移住地に暮らす身にとって、日本の恥部を晒されるような思いを味わう人もいるようだ。

 

 第二次世界大戦終結から74年経っても、また1991年8月にKim Hak—Sun(1924—97)という韓国の女性が、慰安婦としての過去を初めて公共の場で語った日から29年経った今でも、この問題に関する多くの論争は止むことはない。

 

 それはそれぞれの立場から、それぞれの意見を持っている人々の考えがあるためで、恐らく今後も永久に終焉は見ないであろうと予測される。

 

 慰安婦問題に限らずドキュメンタリー・フィルムと言うのは、どの視点から制作しようとも、必ず賛否両論が聞かれるものである。まして韓国と日本の二国間で起こった人道的な問題となれば、背後には政治的、経済的、文化的、社会的問題が絡み一筋縄ではいかない。

 

日系人監督のドキュメンタリー作品

 

 私が一番関心を持ったのは、フィルムメーカーのミキ・デザキ監督がアメリカ・フロリダ州出身(1983年生)の日系二世であること。まだ30代半ばでこのドキュメンタリーを手掛けたことの意味や、目的は何であったのかという点だった。つまり日本人でも韓国人でもない監督が、どの様な立場から制作したのかを知りたかったのだ。

 

 対立する論客をこれほど数多く出演させることが出来たのは、監督自身が言うように、彼がどちらの立場にも属さない人物であったからだろう。登場人物の多彩さには驚くものがあり、それ故に2時間を超える長編になっている。その顔触れは日韓米国からジャーナリスト、憲法学者、政治学者、歴史学者など27名が次々に意見を述べている。

 

 制作の動機について監督は、多方面からの意見を知ることは日韓の理解が深まることに繋がるのではないかとの思いがあったからという。

 

 だが一つ気になるのは、彼が日系アメリカ人であるがゆえに、この複雑な問題をアメリカが日系人を戦時中強制収容所に送ったことに対して、後に賠償を行った事と同列に考えている節が見られる点である。それゆえのフィルム制作であったようだが、それはいささか単純すぎるとの思いを強く感じた。

 

 VFFでの上映の後3週間ばかり経ってからは、ビクトリア大学で「The Comfort Women controversy: Political ramifications and censorship in Japan(慰安婦問題の論争:日本における政治的細分化と検閲問題"」と題する一般公開の講演会が開かれた。

 

 Pacific and Asian Studies学部の教授と助教授の二人が音頭を取り、アメリカでの上映会に出席中の監督をビデオで繋ぎ、若い学生80人ほどの前で公開討論会を開催した。

 

 隣席の学生に聞くと、これはJapanese Cultureを学ぶ授業の一環とのことで、皆PC持参でメモを取っていた。この公開授業/討論会を若い学生たちが今後どの様に生かすか興味深い。

 

戦争によって犠牲になる女性たち

 

 日本が軍部主導で慰安婦を戦場に送ったと言う事実は、残念ながら確かにあったし、その犠牲者の多くが韓国人女性であったのも事実である。フィルムを観て、それぞれの立場からの意見を聞きながら、終始一貫私が思ったのは、戦争は如何に人間を狂気に落とし入れるか、ということであった。

 

 フィルムの中で一か所だけ触れているが、韓国もアメリカのベトナム戦争に協力した時には、自国の女性を韓国軍兵士のための慰安婦としてベトナムに派遣していたという事実が明かされている。表向きには「芸能人慰問団」と称していたとか。

 

 また2011年に発表されたアンジェリーナ・ジョリー監督/脚本によるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を背景にした物語『最愛の大地(In the Land of Blood and Honey)』でも、目を覆いたくなるほどの女性への(性)暴力が描かれている。

 

 いつの時代もあらゆる意味で戦争による犠牲者は市井の人々であり、中でも女性がその最たる標的にされるのである。だが多くの人間は過去に学ばない性であることが悲しい。

 

 

 

 

 


BC州戦時賠償

今マニトバ州ウィニペッグ市にある全カナダ日系協会(National Association Japanese  Canadian-NAJC) を軸に、BC州の戦時賠償キャンペーンが動きが出している。

 

ビクトリア日系文化協会(Victoria Nikkei Cultural Society-VNCS)の1,2月のForum(Volume 28, Issue1)に掲載されたものをここに転載する。

 

注:これは賠償金を求めているのではないことを記しておく。

 

 

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NAJC(全カナダ日系人協会)が行っているBC州の戦時賠償キャンペーンのまとめは以下のようになります。

 

  • BC州戦時賠償の協議会のレポートがまとめられ、編集されたのち観光・アーツそして文化省のリサ・ベアー相に提出され、そのコピーはオンラインで一般に公開されています:http://najc.ca/bcredress

  • 付属書類はこちら: http://najc.ca/bcredress/appendices

  • 提出の同席者はBC州政府のNAJCと共に行っていく遺産イニシアチブへのコミットメントを聞きました。このイベントは生配信され、スピーチは記録されました。: https://www.youtube.com/watch?v=zLDMGQd1oyA

  • 全てのBC州立法議会のメンバー(MLA)はレポートのハードコピーを渡されました。全てのMLAはレポートへのリンク、その付属書類そして大臣の声明の載ったメールを送られています。

  • 将来のBC州戦時賠償の戦略を立てるため、BC州戦時賠償戦略委員会が設立されました。

 

 

以下が今後の戦略です。

 

  • 各MLAとのミーティングが開始されました。二名の自由党のMLAと面会しBC州戦時賠償について訴え、コミュニティの再建に関するアプローチは歓迎されました。

  • NAJCは要求をさらに洗練させ、州内の様々な選挙区の様々なコミュニティの関係者を回っています。

  • NAJCは州政府と1月に会合を開く予定です。BC州政府はコミュニティ協議会で提出された提案をフォローアップすることに好意的な反応を示しており、そのための交渉を開始する用意ができているようです。

  • NAJCはBC州政府に素早く対応し相応しい専門の関係者と交渉に挑む必要があります

  • BC州戦時賠償戦略委員会はNAJCの取締役会、BC州在住の代表者、そして政府関連(ポール・カリヤ)、コミュニケーションズ(アンガス・マカリスター)の専門家そして1988年の賠償和解担当者(アート・ミキそしてマリカ・オオマツ)で成り立っています。戦略によって新たにメンバーが追加される可能性もあります。

 

 

 

 

 

 


ある弔辞

 私には高校時代からの無二の親友で、今フランス(Brou ブルー)のカトリック修道院で尼僧として生活している友人がいます。

 

 昨年12月半ばに彼女から日本の弟さんの訃報が届きました。 とても仲の良い姉弟で、私も「幹夫ちゃん」と呼びながらよく一緒に遊んだ思い出があります。

 

 その後、葬儀には出られない彼女が最愛の弟さんの葬送時に読んで貰うための弔辞が、私にも転送されて来ました。悲しみを抑えながら、それでもユーモアを忘れずに書いた文章が余りにも素敵なため、ここに記して心ある読者の方々と共に「幹夫ちゃん」のご冥福をお祈りしたいと思いました。

 

 姉弟は揃って筋ジストロフィーの障害を抱え、日本と仏国で暮らしていたのです。

 

 

〜*〜*〜**〜*〜*〜 

 

  ひとつのいのちが御国へ旅立っていきました。弟幹夫です。皆様とご一緒に見送ることができないので、ひと言をもって参加させて頂きたいと思います。地球の裏側にいる姉です。

 

 

     私たち姉弟(きょうだい)は、母が仕事を持っていたためもあり、二人でいることが多く、とても近い関係にありました。

     周りのものは私たちを称して「優しく可愛げのある弟と我の強い姉」と言い、それは当たっていました。クリスマスなどにおそろいで色違いのセーターを作ってもらった時なども母の選択は、弟にえんじ色、私には紺色といった具合でした。

 

     一方いたずらにかけて弟は、私の百倍といってもいいと思います。彼のヤンチャは桁外れで、電柱に上って落ちたり、近所のお寺の墓石を倒して手が下敷きになったりなど、年じゅうどこか怪我をしていました。

 

     両親も祖母も既に逝ってしまった今、その頃の思い出を共有するものは誰もいなくなってしまいましたが、この優しさといたずらを混ぜ合わせたエピソードをひとつお分かちしましょう。

 

 

     毎年八幡宮の縁日で弟はヒヨコを買ってもらい小さな電球で温めながら育てていました。もちろん父の助けが相当あったのですが。すぐに死んでしまうのもありましたが、5―6羽は育って立派な若鳥になったものでした。すると彼のヤンチャ気はおとなしくしていられないのです。

 

 よせばよいのにちょっかいを出します。しかしもう立派に育った若鳥は黙っていません。鋭いくちばしで弟への反撃が始まるわけです。可愛いと言えば聞こえがいいのですが、怖がりでもある彼は叫び声とともに逃げます。

 

 そして若鳥はその彼を追いかける靴を抜いで家の中に逃げ込めば一件落着としても、後ろに迫ってくるので靴を脱ぐ時間がない若鶏に追いかけられながら家の周りをグルグル回って「助けてー!」と叫び続けるのでした。

 

     そしてある日、鶏小屋が空になっている悪い予感がよぎるそして夕食の食卓に彼は料理された自分の若鶏を見つけるのでした。始めは食べられなかったがお腹は空くし、背に腹は変えられないというわけでパクっと口に入れる、すると悲しみが込み上げてきて、ワッと泣くこの繰り返しが実に弟らしく私は笑いを堪えるのが難しかったのを覚えています。

 

 

     また飼っていた猫が老衰になり二人でなけなしのお小遣いをはたいて、猫をボストンバックに入れ、犬猫病院に連れていった思い出。帰り道、市電に乗るお金もなくなって本牧から間門を通って加曽台の家まで歩いて帰りましたっけ。この種の思い出は底をつきません。

 

     そして私の発病時弟が示してくれた思いやりと優しさはどんなに大きかったでしょう。更に義妹洋子との出会いと彼らの生活に関してはお分かちしたいことが山ほどあるのですが、洋子さんが恥ずかしがるでしょうから控えます。

 

     不幸にして私たち姉弟は、共に筋ジスと言う難病を持ったため成人して以降の生活は闘病のそれとなりました。奉献生活を選んだ私はともかく、なぜ弟が?と何度も問いかけたものです。

 

 

 彼は私より遅く発病しましたが進行は私より早く、2010年頃には早、気管支切開を云々されるようになっていました。義妹の必至の対処でその後数年間切開せずにやっていきましたが、それも時間の問題でした。

 

  生死を問われるようになった当初、私は遠い地にあって与謝野晶子の詩句『弟よ、君死にたまふなかれ』をよく口ずさんでいました。日露戦争と同時代ではありませんが姉が弟を想う気持ちは同じだったのです。

 

    そして彼の「ただいるだけ」の生活が始まりました。「ただいるだけ」ってどういうことでしょうか?私自身そういう状態に入りつつある今、弟の生き方は私にとって大いに手本となります

 

 

    弟は家族との生活を喜び楽しんでいたようです。なんにもできず世話になるだけだけれど、お前たちと一緒にいたいという姿勢世話をしてくれる家族に委ねる信頼気管切開を決心した時彼はこう言ったそうです。「もう少し頑張ってみるか」と。

 

 いただいた命の尊さを家族とともに生き抜いた彼。苦しい病状にあっても喜びを失わなかった彼です。それは家族の愛があってこそ可能でした。私は弟夫婦やその子供たちを心底誇りに思い、今まで弟を看てくれた義妹と近くにいて世話をしてくれた甥、そして遠くに嫁いで常時側にいられなかったけれど、私への情報提供をこまめにしてくれた姪に心からありがとうと言いたいです。

 

 

    しかしながら「ただいるだけ」だった彼は同時に大きな仕事を果たしました。弟には、自分で何をするわけでもないのに、他を繋ぎ合わせるタレントがあったように思います。私たちがまだ若かった頃からそうでした。私はよく弟の友達を知る機会が与えられ、弟から「○○が姉さんによろしくってよ」等と言われていましたし、特別に近しかったわけではありませんが、私は明るく気さくな彼らが好きでした。

 

  多分この葬儀にもいらしていただいているのではないかと察しますので、お友達の弟への友情に感謝いたします。お世話になり、支えていただきありがとうございました。反対に私の友人たちも同じで、今回、身近な知り合いとして弟の死を悼んでくれています。「幹夫ちゃん」と言って。

 

 

     また教会へ出向くことができなくなってからも秘跡から遠のかないように配慮してくださった教会の皆様、特に飯澤和枝さんに感謝いたします。

     治療に当たってくださった医師や看護関係の方々、在宅看護でお世話になったヘルパーやリハビリの方々に心から御礼申し上げます。

 

     さらには、何にも増して弟に「ありがとう!」と言いたいです。「あなたの存在、あなたの生き方は尊い。ちっともクリスチャン臭くなかったけど、やっぱりキリストの弟子だったね!」と。来るものをすべて受け入れ、苦しみを平和に耐え、喜びを失わなかった家族や周りのものを思いやり、素直に感謝できたのですから !!

 

 

     こうして弟を偲ぶにつけ、昨年教皇フランシスコが出された使徒的勧告 “Gaudete et exsultate(喜びに喜べ)- 現代世界における聖性 - を思わずにはいられません。教皇フランシスコは聖人とは特別な恵みを戴いた、私たちの手に届かない雲の上にいる人ではなく、私たちのすぐ隣で辛苦を共にしている人、愛をもって生きている人だと教えています。

 

 弟は名もなく平凡な一市民としてその務めを果たしました。ですから姉である私は彼をキリストのあかしびとと称して、黙示録にあることばをいただくに相応しいと思っています。

 

 

                        「主に結ばれて死ぬ人は幸いである。

        彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。」

                                                                                                                             (ヨハネの黙示14:13)

今は労苦を解かれて主のおそばで、両親とともに永福を味わっているでしょう。どうぞ御一緒に喜んでください。

                                                             ありがとうございます。

 

                                                                   2019122

フランス、ブルー(Brou)の聖ヨゼフ修道院にて

シスター MS

 

 

 

 

 

 


晩秋の色濃いビクトリア

8月17日以来のご無沙汰です。

 

定期的にお読み下さっている方たちから「どうしたのですか?」とのメールを頂き、御心配下さっていることに感謝しております。

 

公私に渡って兎に角忙しかった9、10月でした。

 

しかし11月に入ってそれがちょっと一段落したため、今回は訳本に関しての情報に一息入れて、先日久しぶりに行った私の ”sanctuary”であるButchart Gardensで撮った写真と、すっかり晩秋の気配が漂うビクトリアの街中の花々の写真を掲載して、ご無沙汰のお詫びをしたいと思います。

 

 

この時期のButchart Gardens:

 

菊のハンギングプランツで飾られた入り口。夏にはこの庭園のシンボルであるこの場所で記念写真を撮る人々が行列を作る

 

 

この庭園のもう一つのシンボルである Sunken Garden を見下ろす。色とりどりの花が咲き乱れる華やかだった夏の雰囲気とは一変している

 

 

秋の風物詩。大小さまざま、形も色もそれぞれのパンプキンが至る所に飾られている

 

 

 

 

寒さに強いパンジーの花々が夏の花の終焉を迎えた今、ひと際美しく咲き誇っている

  

 

 

 

晩秋のビクトリア市内に見られる秋の花々:

 

バラの花が散った後に見られる真っ赤な rose bud

 

一見 ”彼岸花” 風に見えるピンクの花


最後の力を出し切って見事に咲く州議事堂近くのバラの花

 

可愛らしい紫の実を一杯付けている「紫式部」。英語名はBeautiful Berryとか(?)

 

市民の憩いの場 Beacon Hill Parkに放し飼いの孔雀たち:

 

高い木の上の枝にとまり下を散歩する人々を睥睨したり・・・

 

街中の通りや住宅街にも出没してゆったりと散歩を楽しんだり・・・

 

通りを行きかう人々には目もくれず我が道を行く雄姿・・・


 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本‐カナダ商工会議所での講演会

 

訳書を上梓して丸2

 

 「Gateway to Promise」の翻訳本「希望の国カナダ・・・、夢に懸け海を渡った移民たち」が出版されてからこの夏で丸2年目を迎える。

 

 

 徐々にではあるがいまだに訳本が読まれていることは、翻訳グループの立ち上げを統括した者として心より感謝の意を表したい。

 

 今までにトロントやバンクーバーを始め、カナダ各地の日系コミュニティーなどで本の紹介を兼ねたイベントを開催して頂いたことも嬉しい限りである。

 

 またカナダの主要な街にある日本政府の出先機関には、ことごとくお買い求め頂いたことも、ここに記して心からのお礼を申し上げたい。

 

 原本は400頁もの分厚い本である事から、例えば、西海岸から始まった日系カナダ史を何らかの理由でどうしても知らなければならない限り、日本語が母語である人が読み通すのは容易なことではない。

 

 

 これは国際結婚をしている日本女性に多くみられる傾向で興味深いのだが、英語本が出版された2012年に、歴史的内容に興味を持ち、また夫(三世や四世なども含む)が英語を母語とする為に購入した方は多かった。だが5年後の2017年にこの日本語の翻訳本を上梓した折りに聞いたところ、日本人妻で原本を読み通した方は、私が知る限り一人しかいなかった。また日本人のご夫妻の場合は、内容に興味はあっても最初から英語本に興味を示さなかった方が多かった。

 

 もちろん英語本を読み切れなかった理由は、多々あるに違いない。子供がいる家庭などでは、日々の生活の煩雑さで時間が取れないことが大きな理由の一つと思われる。加えて400頁もの英語の歴史本を読み通すことは「面倒」が先にたち、結局は本箱に「積ん読(つんどく)」になって埃をかぶっているという方が多かったのだ。

 

 ブライアン・マルルーニ氏が首相だった1980年代半ばから90年代初期の頃、オタワの政府機関で同時通訳をしていた頭脳明晰なある女性でさえ、(もちろん内容に寄るだろうが)「もし同じ資料が日英両語で出ていれば、まず日本語を先に読む」と言っていた。ましてや言語関係の仕事に関係のない一般人には、慣れ親しんだ母語の方が理解度は格段に違うと思われる。

 

 ではその日本人妻たちの中で日本語訳の本が出たからと買って下さったのは2人のみだった。「家に同じ本が二冊はいらない・・・」とおっしゃるのだ。さらに突っ込んで「では英語人のお連れ合いの方は読まれました?」と聞くと、日系人のルーツのある夫の場合は「Yes」の返事が聞けたものの、その他はほとんどが「パラパラとは目を通したようです」との返事。結局「興味を示さない」ということのようだ。

 

日系移民100年祭

 

 周知の通りカナダの日系コミュニティーは、ビクトリア生れの二世であったトヨ・タカタ氏が、それまでに出ていた各種資料を読み込み、永野萬蔵氏が「1877年に来カしたと言った」と書かれているのを信じ彼をパイオニアと定めた。それによって1977年に『日系移民100年祭』を大々的に開催したのである。

 

 当時米国住いであった萬蔵氏の長男を招待し、またカナダ政府はその功績を称え、ロッキー山脈の切り立った山の一つをMt.マンゾウ・ナガノと命名した。

 

 だが残念なことに何冊か出版されている初期の日系史は、それまでに先行記録された話を繰り返すものばかりで、実際に足で歩いて資料を調べ彼の軌跡をたどってはいない。

 

 スイッツアー夫妻は、自分たちの調査でも各方面からの情報を収集してみると、年代に関して辻褄の合わないことが色々と出てくることに気付いた。

 

原作者のスイッツアー夫妻

 

 そこで2016年には萬蔵氏の故郷である長崎県口之津にある郷土資料館まで出向き調査してみると、1887年に住民票を横浜に移動したという書類が展示されていたことを突き止めたのである。となると1877年にはまだ故郷に在住していたことになる。

 

 もちろん萬蔵氏は後日カナダには来ており、辣腕なビジネスマンとして西海岸で活躍した男性だったことは確かであった。

 

 後世の歴史家の調査によって、それ迄信じられていた史実に新たな光が当たるのはよくあること。『萬蔵パイオニア説』もその一つかも知れない。

 

 私は今で言う『歴女』などではないものの、今夏バンクーバーの日本・カナダ商工会議所からのお招きを得た折りには、そんなお話をさせて頂いた。いまだに興味を持って下さる方々がいる事、特にバンクーバーに語学留学している若い学生さんたちが何人か来て下さったことも嬉しかった。

 

バンクーバー日本―カナダ商工会議所での講演会の模様

 

 

 いつの時代も、過ぎ去った日々に思いを馳せるのは興味が尽きないものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


童話作家 童飛鳥氏からの嬉しいお便り

読者の中には、カナダと日本を中心に世界で活躍する童話作家・童飛鳥氏をご存知の方は多いに違いない。

 

 

すでに何冊もの本を出版されていることから、氏の書籍をお持ちだったり、或いはお読みになった方は数限りおられる筈。

私はトロント時代にお知り合いになり、付かず離れずお付き合いをさせて頂いた。

 

氏を紹介する数ある記事の一編:

http://www2.bitslounge.com/a00_interview/2004/0204_wara.html

 

 

以下の童話は高円宮妃久子様の書かれたお話しに飛鳥氏が絵を描かれた一冊

 

 

ご出身は四国の香川県で、40余年カナダに居を構えてご活躍の後、この春故郷に戻られて日本を基点にされながら、新たな芸術活動を展開され始めた。

 

是非一冊お届けしたいとお送りした訳本に対して、引っ越されたばかりでお忙しい折りにも関わらず、以下のようなお礼のご返事を頂いた。

 

 

敬子さま

 

『希望の国カナダへ・・・夢に懸け、海を渡った移民たち』の本が届きました。お手配恐縮しました。

 

 

早速「春うららかな書房」の原 生様にはお礼の電話をしましたが、留守でしたのでお礼の言葉のみお伝えしました。敬子さんにも早くお礼の気持ちを伝えなければと思いましたが、やはり本に目を通してからの方が良いと考えましたので、ご報告が遅くなりました。 

 

 第一部「歴史:ビクトリアの日本人」、第二部「縁の地」を拝読しながら、原作者のアンリー/ゴードン・スイッツアーご夫妻の入念な資料を元に徹底した取材を通して得た貴重且つ希少な情報を元に纏められた内容の日系史に驚き感動しました。

 

 私が知るカナダの日系人に関して書かれた本に最初に出会ったのは新保満氏の『石をもて追われるが如く』、ジョイ・コガワ氏の『おばさん』、高島静江氏の『強制収容所の子供たち』等でした。

 

 ですからこれほど入念に戦前をずっと遡って綴った日系人に関する書籍には出会わなかったので、とても興味深く読ませて頂きました。

 

 第三部の「個人の歴史」もよくもこれだけ多くの方達の生い立ちから生き方までも調べ上げたことに作者の熱意が感じられました。

 

 私自身40年前に渡加した際、トロントで一番最初に出会ったのは新移住者ではなく戦前から移住された一世の方達でした。

 

 そのきっかけはこの物語にもでてくる日本語新聞「New Canadian紙」に「ニッポニアホームへ慰問に行くバスに未だ残席あります」の記事に目が止まり参加しましたが、新移住者は私一人でした。

 

 そんなご縁から一世の方達との触れ合いの機会が増え、特に和歌山県出身の西岡小菊さんとは親しくお付き合いをさせて頂き大変お世話になりました。

 

 西岡さんの旦那様はスティーブストンで漁師として成功を収め、三隻の船を持っていましたが、第二次大戦勃発後三隻の船は真っ先に没収されたというお話を伺い、一世の方達を通してカナダにも戦前から移住した日系人がいらしたことを初めて知り、日本の教科書には南米やアメリカに移住した方達の歴史しか書かれていなかったので、己の無知を恥じました。

 

 そういう意味でもこの第三部の「家族の物語」はとても興味深く読ませて頂きました。

 

 それにしてもスイッツアーご夫妻の大変な労作の翻訳に取り組まれた敬子さんの日系史に関する大変な熱意とご努力、そして敬子さんに賛同して協力して下さった16名の方達や美智子さんにも敬意を払いたいと思います。

 

 素晴らしい本に纏まっていると思います。日系人に関する内容の書籍に限らず、カナダに関する本が出版される度に思うのは、なかなか日本の読者に浸透していかないことです。

 

 長年の友人の佐藤アヤコ教授(明治学院大学、日本ペンクラブ理事)は長年Joy Kogawa、Kerry Sakamoto、Margaret・Atwood(佐藤教授が3冊日本語に翻訳)、Michael・Ondaatje等カナダ人作家の作品を日本に紹介したり、明治学院大学に招いて講演やシンポジュームなどを企画、主催し、また日本人作家・阿刀田 高、赤川次郎他を国際交流基金を通してカナダに招聘したり、両国の文化交流にとても協力的です。

 

 その彼女が「カナダの文学は地味なので、日本の出版社がなかなか取り上げてくれないのよ」とよく嘆いていました。同じ日系史でも南米や米国に関しては多くの書物が出版され、それらの作品の幾つかは映画化もされています。

 

 この『希望の国カナダへ・・・』も脚本家のどなたかが興味を示して映画化されるともっともっと注目されるような気がします。

 

〜中略〜

 

 最後に、本の内容ではなく、装丁に関して気付いたことを述べさせて頂けるならば、 本のタイトルが背景の写真に邪魔されて表紙と背共に目立たないのが気になります。

 

 

 私は20代の頃東京でグラフィックデザイナーとして20数冊の書籍の装丁、デザインを手掛けましたが、その際最も心掛けたことは、書店や図書館に並べられた時に平積または書棚に並べられた場合の両方を考慮し、他の書籍よりもよりインパクトを強く、読者の目につき、探しやすいように注意を払っていましたので、今も自作本はできるだけ自分でデザインをしています。

 

 これは出版社サイドが配慮することなので、勝手なことを書いてすみません!

素晴らしい本に出会えてことに感謝し、お礼を申し上げます。                                                                                      有難うございました。

 

わらべ

 

 

 

 

 


「令和」開始の日(5月1日)に寄せて

半月前の4月15日に私は、以下の文章をトロントの女性ライターの集りである「G8」https://thegroupofeight.com/の定期投稿に載せた。

そして今日5月1日には「平成」が「令和」という新元号に変わり、日本社会に変化がもたらされた。

 

その投稿に多少の手を加え、ここに再掲載したいと思う。

 

 

 

平成」最後の月(4月)にカナダから

 

カナダBC州ビクトリア市で見た新元号発表の瞬間 

4月に入ってからは、日本からのメルマガや友人からのメールに「平成最後の月」という言葉が躍っている。

 

天皇が変わるたびに設けられる日本特有の元号については、41日からの半月間多くのメディアがうん蓄を傾け、有識者の談話と共にあらゆる情報が飛びかっている。

 

当然と言えば当然だが、はっきり言って外国住まいには、今一つ「ピンと来ない感」があることは否めない。まだまだこれからも想像に絶する程の関連ニュースが流されることだろう。 

 

日進月歩で発達しているテクノロジーのお陰で、新元号発表の瞬間は世界中でそのニュースを見ることが出来、もちろんカナダも例外ではなかった。

 

 

奇しくもその日私は日本の友人に夕食を招待されていたことから、時間を併せ彼女のコンピューターで成り行きを見守りながら、「平成」が決まった31年前の事に思いを馳せていた。

 

 

当時私は日本経済新聞トロント支局に勤めていたことから、決定した瞬間に本社が世界各国の支局に流したFAXによって知ったのである。

 

もちろん電話によって情報を素早くキャッチすることは可能であった。だが一般の人々が世界を駆け巡るニュースを瞬時に得られる時代ではなかった為、トロント在住の日本人からの問い合わせが殺到し、支局は対応に追われたのが懐かしく思い出された。

 

一時立ち消えの女性天皇論

北米や南米大陸の国々では、カナダも含め、いわゆる王室/皇室と言うものを持たない。だがカナダは連邦立憲君主制国家で英連邦王国の一つである。今は多民族社会で「二言語(英仏)多文化主義」をモットーとするものの、人口の70%近くはヨーロッパ系白人であるため、国民の多くは英王室関連のニュースに一喜一憂する。

 

それが君主を持たないアメリカ人たちから見ると羨ましいと思う向きもあるようだが、代わって注目の的になるのは大統領一家で、過去においてはケネディ家がその最たるものであった。

 

国の象徴である王室・皇室が長い歴史を持ち、良くも悪くも国民の注目の的になるのは英国も日本も同じである。しかし両国の決定的な違いは、英国の場合、次期君主は男女に関係なく第一子の最初の子供であることだ。

 

まだ記憶に新しいが、日本にも秋篠宮家に親王が誕生するまでは女性天皇論が浮上した。だが直系ではないものの男子が生まれたことで、議論は大いにくすぶりながらも今は一時立消えになっているようである。

 

今後彼が成人して子を成すまでにはまだ20余年は掛かるだろうことを予測すれば、切迫した問題ではないわけで関係者はさぞやホッとした事だろう。

 

天皇制の存在

歴史を見れば明らかなように、明治天皇の側室の子であった大正天皇に男子(昭和天皇)が生まれ、また次にも男子(平成天皇)が生まれたこともあって、それまで当然の如くまかり通っていた側室制度が自然消滅した。

 

近代社会にそぐわないことで変化した制度はそればかりではなく、美智子皇后が民間から嫁したこと、乳母を雇わずに自ら現皇太子を養育したこと、続いて紀子妃、雅子妃がそれに続き、徐々にではあっても皇室のあり方は時代と共に変化している。加えて近年は皇族が通う学校も今までは学習院と決まっていたことも、国際基督教大学、お茶の水と言った学校が選ばれていることも周知の通りである。

 

正直な気持ちを明かせば、私は「天皇制の存在」というものには非常に複雑な思いがあり、お正月に皇居に行きただニコニコと『天皇バンザイ』を口にすることにも何処か抵抗があった。

 

それは何に原点を発するかと言えば、戦前全く「普通の市民」の一人であった父が、「天皇陛下」の名のもとに終戦を迎える僅か1年前(昭和19年‐1944年)に赤紙1枚で招集され、フィリッピンで戦死した(と言われているが、実際は何処か分からない)からだ。父はすでに36歳で子供が三人おり、自身の父母も養う一家の大黒柱であったが、負け戦が続く日本はもう元気な男子なら誰でも戦場に駆り出したのである。

 

だがそんな切迫した時でも、与謝野晶子の歌のように「皇尊(すめらみこと)は戦いに、御自らは出でませぬ〜」のである。

 

その後国から私の家族の元に送られたのは、桐の箱に入った何処で拾って来たかも分からない石ころ一つで、出生時一歳だった私には父の記憶は一切なく永遠の思慕で終わっている。

 

だからと言って、平成天皇に先の戦争の責任があるとは思えないし、戦犯として処刑された人々が眠る靖国神社には決して詣でないことも当然の事と思う。またこの何年かは美智子皇后と共に東南アジアの旧戦場地を幾つも歴訪し、言ってみれば昭和天皇の戦争責任の‟尻ぬぐい”をしているのは見上げた事と思う。

 

加えて、これも非常に私的な体験なのだが、2009年に両陛下がトロントを訪問された際に、私は実母がシニアになってから移住したトロントでの生活体験を書いた「カナダ生き生き老い暮らし」(集英社)を、団長だった福田元総理に託して両陛下にお渡し下さるようお願いした。

 

右側の文庫本をお渡しした

 

中に記した母の戦争体験記を是非ともお読み頂きたかったからである。戻されることを覚悟していたが、23日してお二人がバンクーバーに到着された時、美智子妃の女官と言う方から「確かに受け取り、美智子妃にお渡ししました」との電話を頂いた。

 

私は一市民の戦争への思いが伝わったことに喜びを感じ、心の中に「許」という思いがスーッとよぎったのを覚えている。

 

時代に沿った流れ

新元号「令和」はあと半月弱で始まる。第二次世界大戦後に生まれた人口が8割を超えた今でも天皇制、天皇家は日本にしっかりと根付いている。今後も存続し続けるのであろうことを考える時フツフツと湧く思いは、時代と共にもっとそのあり様は変革していくべきであると強く感じるのだ。

 

側室制度の廃止が当たり前なのと並行して、天皇家に嫁ぐ女性たちが「男子を産む器械」に化すのではなく、英国の様に男女に関係なく第一子が次代を継ぐことが当然と国民が思えるようになって欲しいと願うのである。

 

昨今は美智子妃の結婚後、旧皇族からの大変ないじめがあった事が明かされているが、妃にとってとてもラッキーだったのは、結婚の翌年に第一子として皇太子が産まれたことであろう。

 

それが雅子妃には叶わず、結局男子の誕生はなかったわけで、そのプレッシャーが如何ばかりであったかは容易に推察出来る。もちろん第2子の懐妊が成らなかった理由は国民には明かされないが、雅子妃にのみに責任があるとは全く思えない。こうした種々の精神的要因がもとで病気になられたのは至極当然であると推察する。

 

だが今後は唯一無二の雅子皇后になられるわけで、召される洋服も(高級品ではあるのだろうが)、まるで一昔前のテーラード襟の‟地方公務員の制服もどき”のスーツは止めて、独身時代のようにもっと個性豊かなスタイルであって欲しいと願う。日本には世界で活躍する素晴らしいいデザイナーが沢山いるのだから!

 

最後に『令和』礼賛に水を差すわけではないが、日本語の余り分からない人に「レイってどんな字?」と聞かれた時、「『命令の令』と言うのはとっても嫌」と言う日本語教師がいる。

 

また『万葉集』の『梅花宴(梅の花を見る宴会)』で詠まれた32首の歌の序文から採用されたと言うが、「梅は中国を象徴する花ではないの?」との質問も受けると言う。

 

2月の鎌倉・東慶寺に咲く梅

 

日本人が好いてやまない桜でなかったのは惜しまれる。

 

BC州ビクトリア市の咲く満開の桜

 

5月1日記:

新元号が決まって一ヶ月経った今なら、『令』には『うるわしい』という意味がある事を多くのメディアが報じ、確かに広辞苑を見ても説明の4番目には『よいこと』『めでたいこと』と書かれている。だが、現場の先生が苦労するのも分かる気がする。

 

 

 

 

 


東京カナダ大使館での訳本紹介イベント

一月半ばから3月初旬まで、今回は6週間に渡って訪日していた。

 

幾つかの私的用事と共にビジネス関係で一番念願だったのは、東京カナダ大使館で訳書紹介のイベントをして欲しいとのお願いに対する返事を頂くのが目的であった。

 

御所の目前の青山通りにあるカナダ大使館の建物

 

すでにこの欄で何度も書いているように、去年と今年は日加友好関係樹立から90周年と言う記念の年に当たるため、「日系カナダ史」を少しでも多く日本の読者に理解して頂きたいとの思いがあったからだ。(不随ながら、記念の年が二年に渡るのは、日本からカナダに公館を出したのが1928年で、カナダから東京にオフィスを設けたのが翌年の1929年であった為である)

 

 

そこで去年(2018年1月)から、私は精魂込めて丁寧なお願いのメールを何回も送った。もちろん英文のプロポーザルも然るべき担当者に渡して欲しいと送っているし、原作者のAnn-Lee/Gordon Switzer夫妻も、現カナダ大使宛てに郵便で手紙も出している。しかしこの一年余り返事は一切なく「無しのツブテ」だったのだ。

 

私たちは飛行機代やお礼などを一切要求していない旨も書いた。ただ両国にとって非常に記念すべき年に、意義あるイベントをさせて頂きたい旨をお願いしたのみであった。

 

しかし待てど暮らせど一切の返事がなかった事で、私は今回の訪日の折りに然るべきカナダ人の担当者に直接会って、交渉させて頂きたかったのだ。

 

だが残念ながらその「然るべき担当者」にお会いすることは出来ず、結果から先に言えば「NO」と言う返事のメールが、最初にアプローチした日本人職員の方から英語で送られて来た。

 

もちろん担当のカナダ人に、そのメールがBCCが送られていることは自明の理である。私は即カナダ人の担当者に英語で「とても残念である」旨の返事を送った。

 

理由はと言えば、そう言った文化的な行事には興味がないこと、またお決まりの資金不足というのである。東京でそのメールの返事を入手するまで、大使館への訪問、電話、何回かのメールのやり取りがあった事は言うまでもない。

 

しかしそうであるなら、何故無回答を押し通さず「興味なし」あるいは「資金がなし」と一年以上前に一言返事をくれなかったのだろうかと、断られた今も不思議でならない。

 

40数年カナダに住んでいる私のカナダ人に対する感想は、礼儀正しく礼節を重んじる人たちであることから、大使館上層部の人々の誠意のなさに、原作者のAnn-Lee/Gordon Switzer夫妻共々心底落胆している。

 

 

エレベーターで二階に上がると、開かれた空間に造られた石庭が目に飛び込んでくる

 

 

 

 

〜*〜*〜

 

 

追記:折も折先月3月24日には、テレビ東京開局55周年特別企画ドラマスペシャルとして山崎豊子の「二つの祖国」が4時間にのぼる長編ドラマになって放映された。

 

 

 

また1984年には、題名を原作の「二つの祖国」から「山河燃ゆ」に変名して、初めて太平洋戦争を描いた「大河ドラマ」としてNHKで制作された。出演は松本幸四郎、西田敏行、鶴田浩二、三船敏郎、沢田研二などである。

 

 

加えて2010年11月には、TBS開局60周年記念として「99年の愛 〜Japanese Americans〜」と題するドラマが創られた。草薙剛、仲間由紀恵、岸惠子などが出演している。

 

 

この様に日系アメリカ人を主題にしたテレビドラマは私が知るだけで3本も制作され、テレビと言う媒体を通して放映され多くの日本人視聴者を得ている。

 

一方日系カナダ人については2014年に「バンクーバーの朝日」と題した映画が、妻夫木聡主演で製作されたものだけである。

これは当時の日系カナダ人の男の子たちが集まってバンクーバーで作った野球チームの話で、白人カナダ人のチームとの試合を通して排斥の日々に立ち向かう若者たちの物語である。

 

 

カナダもアメリカと同じように日系人は戦時中に強制収容所に送られている。

 

だがアメリカ西海岸の日系人との大きな違いは、終戦(1945年)を迎えてからも4年の間日系人に対して非常に偏見のあった当時のマッケンジー・キング首相の意向を反映した法律によって、西海岸の故郷に戻れなかったと言う悲史がある。

 

彼らは日本に戻るか、又はカナダの東部に移動するという選択を余儀なくされた。しかしこの事実を知る日本人はごく限られている。

 

そんな意味においても、日加修好90周年に当たり東京のカナダ大使館において「希望の国カナダ・・・、夢に懸け海を渡った移民たち」の紹介が出来ることを切望していたのだが・・・。

 

 

訳本の購入は引き続き以下で可能です。

 

カナダ・アメリカ:サンダース宮松敬子

               本代:$29.95cad(税込み)+送料

       mail:k-m-s@post.com

 

カナダ・トロント:Japanese Canadian Cultural Centre(トロント日系会館)の本屋

                                  6 Gramond Court ,Ontario, Toronto, M3C 1Z5

             Tel:416-441-2345

              本代:$29.95cad(発送はしていません)

 

カナダ・バンクーバー方面:Nikkei National Museum & Cultural Centre (日系ミュージアム)の本屋

                                            6688 Southoaks Cres. Burnaby, BC, V5E 4M7

                 Tel:604-777-7000

                  本代:$29.95cad(発送はしていません)

 

東京:連絡所

    本代:¥2600.00+送料(1〜2冊)レターパック¥360.00=¥2960.00(合計)

    mail: shohara@uraraka.co.jp (連絡所代表の原 生(Hara Sho)氏とやり取りをして下さい)

 

 

 

 

 

 

 

 


再度:訳書「希望の国カナダ・・・」東京連絡事務所

 

現在訪日中で、日本で訳書の販売に力を入れている。

何処で買えるかとの問いをよく頂くので、ここに再度販売元のインフォメーションを掲載したい。

 

⁂日本:

 

東京:翻訳本「希望の国カナダ・・・、夢に懸け、海を渡った移民たち」東京連絡所

    本代:¥2600.00+送料(1〜2冊)レターパック¥360.00=¥2960.00(合計)

    mail: shohara@uraraka.co.jp (ここにメールして連絡所代表の原 生(Hara Sho)氏とやり取りをして頂きたい)

 

 

 



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