エミリー・カーの波乱万丈人生 (4)


自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)


グループ・オブ・セブン(G7)の画家たちとの出会い
http://www.e-nikka.ca/img_base/10pic.gif

episode 4,5
エミリー・カーの生家のダイニングルーム

episode 4,5
生家の朝食の部屋(卓上に若いころのエミリー・カーの写真が見える)

episode 4,5
生家のリビングルーム 

episode 4,5
暖炉の上の家族の写真

今は、19201979年代のカナダで活躍した風景画を描く男性7人の画家集団、グループ・オブ・セブン(G7=http://www.mcmichael.com/)の存在を知らぬカナダ人はいないだろうし、世界的にも知名度は高い。 

オリジナルのメンバーは、フランクリン・カーマイケル(Franklin Carmichael18901945)、ローレン・ハリス(Lawren Harris18851970)、A.Y. ジャクソン(A. Y. Jackson18821974)、フランク・ジョンストン(Frank Johnston18881949)、アーサー・リスマー(Arthur Lismer18851969)、J.E.H. マクドナルド(J. E. H. MacDonald18731932)、フレデリック・ヴァーリー(Frederick Varley18811969)である。 

後には、1926年にA.J. カッソン(A.J. Casson18981992)、1930年にエドウィン・ホルゲイト(Edwin Holgate18921977)が、1932年にレモイネ・フィッツジェラルド(LeMoine FitzGerald18901956)が 加わった。またもう一人トム・トムソン(Tom Thomson18771917)は、画家たちとの交流はあったが、グループが形成される前に死去している。
この一大組織の画家たちは、保守的で模倣的体質を持つ当時のカナダ芸術に嫌気がさし、グループを結成したのである。 

しかし東部カナダの出身者ばかりであったため、西部カナダで日々忙しくボーディングハウスを営み、芸術とはほど遠い生活に追われていたエミリーが、1927年までその名を知らなかったとしても全く無理からぬことだろう。

そのグループからの、寝耳に水のような展覧会の招待を受けた時のエミリーの驚きは、いかほどのものだったか! 

姉たちから東部行きの了解を取り、出展作品を送り出して後に、エミリーはやる心を抑えながらオタワの国立美術館での展覧会に出席するため意気揚々と出発したのである。
そんな彼女の嬉しさを抑えきれない様子は容易に想像できるが、旅の途中の最も大事なイベントは、トロントで途中下車してG7の画家たちと会うことだった。

「わたしは展覧会を見るために東部に行くのではなく、7人に会って彼らの作品を見たかった」とエミリーはのちに記している。天にも昇るような気持ちを味わいながらも、同時に、長い間、真剣に絵を描くことがなかった自分に急に不安も覚えたのだ。 

episode 4,5
油絵「Arbutus Tree」(1922年)(National Gallery of Canada, Ottawa所蔵) 

トロントでは、まず、A.Y. ジャクソンのアトリエを皮切りに、オタワ行きの次の汽車に乗る数時間の間に、ローレン・ハリスを含む4人に会うことが出来た。

どの画家たちとの出会いも刺激的であったが、特にハリスとの出会いは、エミリーのその後の芸術活動に多大な影響を与えることになる。彼の思いもよらない暖かい歓迎には心底感動したが、オタワに行く時間が迫り、何と言っても時間が足りない。だがハリスは快く再会を約束してくれた。 

episode 4,5
ローレン・ハリスの作品 AGGV所蔵From Berg Lake, Evening #4 in the “Sketches of Mount Robson” seriesaround 1924-1930年)On loan from private collection 

オタワでの展覧会は大成功だった。
いつも見慣れているトーテムポール、カヌー等などの数多くの作品が一堂に展示されていることに驚き、こんなに大きな展覧会への出展は、パリのサロン・ドートンヌ以来だと感慨を覚えずにいられなかった。(オタワ国立美術館は翌年の1928年にエミリーの水彩画3点を購入) 

カナダ西部での展覧会では、思い出すのも辛いほど人々は彼女の絵を嫌い無理解だったが、オタワでは皆が余りにも親切で、かえって気恥ずかしさを覚えたほどだ。
出展作品への評価も、フランスにいた時以来の心地よいものだった。 

この展覧会のあいだ中、エミリーはハリスとの再会を熱望していた。
彼はそれを約束してくれたものの、そのチャンスは是非「西部に帰る前に」と心の焦りを抑えようもなかった。
展覧会の成功にもかかわらず、エミリーはまだどこかシャイであったが、勇気を奮い起こしてハリスに電話を掛け、明後日には西部に戻ることを告げ、その前に是非もう一度訪問したい旨を伝えた。

   episode 4,5
ローレン・ハリスのスケッチ AGGV所蔵「Mountain LandscapeGift of Mrs. Peggy Knox
 
トロントで再会したハリスは自宅での夕食に招いてくれ、音楽、絵画の話に時のたつのも忘れたのだが、翌日には再度アトリエに来るように誘ってくれた。
しかしエミリーが、長い間真剣に絵筆を握っていないことに気付いたハリスは、自分のアトリエでは特に何が見たいかを聞いた。


エミリーは「すべて!」と即座に答えた。


彼女の作品展は、オタワの後にはトロントが予定されていたため、エミリーはその評判や作品を厳しく批判して書き送ってほしいと別れる前にハリスに懇願した。 

この刺激的な出会いは、生活に追われて絵を描くことから離れていた15年間の空白を一気に埋めたかのようで、エミリーは東部から戻った3日目に再び絵を描き始めた。(資料によれば、エミリーは「15年の空白」と言っているが、それは精神的には真実であったものの、数は少ないながら制作は続けていたという) 

後日、ハリスから送られてきたトロントでの展覧会に関する長い手紙には、彼が作品にいかに感動し素晴らしかったか、批判することは何もないと書かれていた。
加えて、先住民のスピリットや彼らの人生や自然への思いに対し、「あなただから出来る最も適した方法を見つけ、答えているのではないだろうか」とも書かれていた。 

今まで彼女の作品に関し、他の批評家が書いたような技術的な指摘とは全く異なり、ハリスの手紙には、作品を先住民やカナダと結び付けて見てくれており、その寛大な称賛はエミリーの気持ちを舞い上がらせるに十分だった。 

とは言え、ボーディングハウス経営で家事労働が重くのしかかる日常生活のため、遠出をして絵を描くことは出来なかった。
しかし近場の森には鼻歌を歌いながらよくスケッチに出かけ、またその夏には、以前訪ねた北方の村々や新たな場所に足を運んだ。しかし残念ながらいたるところで先住民の生活に惨めな変化が生じているのを目にしたのである。

博物館が買いあさっていたため、多くのトーテムポールが売られてしまっていた。今や先住民たちは、金もうけのために旅行者を喜ばせるような表面的で意味の希薄なものを彫っていた。 


G7の招待リストに載る
G7の出会いから間もなくして7人の画家たちは、彼女の名前を「招待リスト」に加えることに同意し、その旨を知らされたエミリーは大変に喜んだ。

最初の出会い以後、すぐに始まったハリスとの文通は、途切れることなく続けられ、エミリーは彼から絶え間ないインスピレーションを与えられた。

先住民の村々での変化を書き送った時には、しばらくの間、彼らをモチーフとして使うことをやめるように説得され、自然の中から自分自身のスタイルをもっと学ぶようアドバイスされた。 

episode 4,5
Above the Gravel Pit」(1936年) (AGGV所蔵)

またエミリーは、ただ一人カナダの西にいて孤軍奮闘をしているのに反し、東部の7人の画家たちは、一丸となって活躍しているのを知るにつけ、「とてもうらやましい!」と書いた時には、ここは「おしゃべりが多過ぎる」と嘆き「孤独は素晴らしい」と返事を返して来た。

思えば、孤独はいつも自分で選んだ道だったことにエミリーは気付き、そんなことを言う自分を「年とった愚かな私!」と自嘲した。 

以後、西部での孤立を嘆くのをやめてみると、切り離されていたのがかえってよかったのだと思えるようになった。過ぎし日、外国で学んだものが熟成し、今は当地での見方の中に置き換わり、自分の中に浸透していることを感じるようになった。 

その国を表現するには、長い年月をかけて育み熟成された最良の方法があるもので、それをそのまま新たな場所、例えば新開地のカナダに適合させることは無理があると悟ったのである。

またこうした時期には、例えばアメリカのシアトルから来て彼女と議論したり、絵画の技法を教えたマーク・トビー(1890-1976)のような若い芸術家との交流もあり、エミリーは大いなる影響を受けている。
 
特に日常の雑事から離れることをトビーはエミーにしきりに忠告している。 

episode 4,5
マーク・トビー作 油絵「無題」(1948年) 
AGGV蔵: Gift of Dr. P. R. Dow in Memory of Berthe Poncy


エミリーはハリスに限らず、東部のG7のメンバーや芸術家とも文通を行い、グループ展が開かれた折に3回ほど東部への汽車の旅をした。


(次回に続く)







 

エミリー・カーの波乱万丈人生 (3)

自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)


フランスで絵画を学び帰国、だが困窮の日々は続く
 

episode3          
▲BC州ビクトリア市ダウンタウンのビクトリア・ハーバーを望める場所に建つエミリー・カーのブロンズ像(正面と後姿)
肩に乗っているのは可愛がっていた猿のWoo、彼女の周りにはいつも動物がいた。

フランスへの旅
再度の渡欧の決心に家族は困惑し心配したものの、エミリーの決心は固く、今度はフランス語のわかる姉の Alice と共に出発することになった。

途中、苦い思い出のあるロンドンは急ぎ通過し、ドーバー海峡を渡り、美しい田園風景の広がるフランスの田舎を滑りぬけパリに到着した。
居を構えたのはモンパルナス地区であった。
 

時は1910年。ヨーロッパではフォービスムのマティスやルオー、キュビスムのピカソやブラック、アールヌーボーのクリムトやガウディなどが前後して活躍していた時期であった。

エミリーは世に言う「ニューアート」が何であるかを発見したいとの思いが強かった。と同時に、自分の作品がどのように評価されるかにも興味があった。
 
 
 勧められるままにある美術学校に通い始めたものの、フランス語を理解しないエミリーには、自分の作品を教師がほめているのか、あるいは非難しているのか最初のうちは理解できなかった。
しかし持ち前の前向きな頑張りで懸命に学ぶ努力を惜しまなかった。
 

だが、余りにも根をつめての制作の日々に疲労困憊(ひろうこんぱい)し、ここでもまたロンドンと同じように、病魔に襲われ3カ月ほど入院する羽目になった。
医師からは大都市を離れなければ死に至るだろうと言われ、姉の
Alice と共に療養のためにスウェーデンに行く決心をする。 

カナダに似た風景が広がるスウェーデンへの旅は楽しかった。

熱い塩湯に入ったりするなど、ゆっくりとしたことが効をなしたのか、春にはフランスに帰ることが出来た。
姉はパリに戻ったが、エミリーは同行せず、クレシーというパリから2時間ほどの郊外に行き、以前パリで通ったアトリエの教師が設立した新たな教室で風景画などを学び始めた。

 

episode3
フランスでの水彩画「Brittany Coast」(1911年) (AGGV所蔵 Gift of Major H.C. Holmes)


この教師は、最初とても気難しそうで取っ付きにくく、芸術面で女性が男性と競うことを快く思わなかった。

だがある日、エミリーが習作を壊したのを見て「君に教えるのはだから好きなんだ。何かもっと良いものを見つけるために、いつも一番いいものを壊してしまうんだから」と言った。

また自分の絵を他の生徒には見せるのに、エミリーには見せなかったりすることに不満を言うと、「他の学生はまだ将来何になるか決めていない。でもあなたは、すでに女流画家の一人になる積もりなのだから私の作品に影響されてはいけない」と彼独特の褒め言葉でエミリーを励ました。

 

episode3
フランスでの油絵習作「無題」(Hillside in France)1911年)(AGGV 所蔵、Flora Hamilton Burns Bequest)
 
 
しかし、エミリーが息抜きもせず常に貪欲(どんよく)に絵の勉強に専念するのを見て、「もっとおしゃべり、おしゃべり、おしゃべり」とリラックスすることを説く。

それに対しエミリーは、フランスでの滞在が限られていることを伝えたのだが、教師は「あなたの国の無口な先住民たちの方が、ここにいる持って回った芸術のたわごとを言う人たちよりも、もっと多くのことを教えてくれるだろうよ」と言うのだった。
そしてその年のサロンドートンヌ展に、彼女の二つの作品が展示されたのをとても喜んでくれた。
 

その後、教師夫妻がブルターニュに転居するのを機に同行し、都会から離れた田舎で野に出ては習作に励んだ。
エミリーはその地で彼女独特の心のこもったアプローチで人付き合いをし、近くの農家の人々、特に子供たちと仲良くなり、牧歌的で心温まる暮らしを存分に楽しんだのだ。
 


episode3
フランスでの油絵習作「Brittany」(1911年)(McMichael Canadian Art collection, Gift of the Founders, Robert and Singne McMichael)  


この14カ月にわたるフランス滞在で、エミリーはフォービスムや水彩画を学び、1911年にカナダに戻ったのである。 

バンクーバーでの生活
イギリスからカナダに帰国した時に比べ、フランスからの場合は心身ともに強靭(きょうじん)になっており、視野も広がり、教師として教えること、あるいは自分自身の勉強に関しても次のステップに行く準備が出来ていた。 

だが、広大な西部の自然とどのように向き合うかになると変わらずに困惑し、またビクトリアも以前と同じように、芸術を育(はぐく)み絵画の制作をするには不毛な土地であることを再認識させられた。

そこでバンクーバーに行ってアトリエを開き、フランスでの作品の展覧会を催した。しかし、来場者は壁に掛けられた作品に、目をつり上げて驚きのまなざしで眺め、そして笑った。 

彼らは木を見て森を見ることが出来ず、批評家は「カメラのようにすべてを写し出す表現方法をよしとする」と言い、細かい部分が描かれていないエミリーの作品に混乱し、怒りを露(あらわ)にした。

中にはアトリエに用もなく入って来ておしゃべりはするものの、壁の絵には目もくれようとしない友人もいた。
 


episod3
フランスでの油絵習作「Autumn in France」(1911 年)(McMichael Canadian Art Collection, gift of Dr. Max Stern, dominion Gallery, Montreal 


しかしエミリーは、彼らが作品を理解できなくても、それによって傷つくこともなく、自分の画法は風変わりでも過激でもなく、また奇怪でも下品でもないと信じていた。

だがカナダ西部の人々は、パリでの習作は単に注意を引くために異常な指向に走っていると取っていたのだ。
 

新聞の記事が屈辱的でも、また人々にあざ笑われても、エミリーはフランスに行ったことを後悔することはなかった。

それよりも、古い画法ではこの国の広さや深さや高さを、また侵すことの出来ないほどの静寂さを表現することは出来ないと確信していた。


一千万台のカメラを用いても本当のカナダの自然を表現することはできない、何よりも生きた心で感じ、それを愛さなければならないのだと。 

だが西部カナダの人々は超保守的で、一世代や二世代前にカナダに移住した時の価値観をそのまま維持していた。彼らは保守的な本国のイギリスでさえ、ゆっくりと前進していることに気付かず、古くてすたれたものに固執していたのだ。 

アトリエの生徒は数えるほどしかいなかったため時間は十分にあった。だが彼女は時間を無駄にはせず、スケッチをするためによく北方に出かけた。

そして自分でも自身の絵の成長に気づくようになっていた。
 

先住民の村々も訪ね、トーテムポールの絵をますます描くようになり、彼らとの交流を深めていく。
おそらくフランスから帰国後に味わったバンクーバーでの疎外感の反動が、この時期に先住民との親密感をより深めて行ったのではないだろうか。


episod3 
Tanoo, Queen Charlotte Islands (1913) (BC Archives collection , Royal BC Museum Corporation, Victoria 所蔵)


episod3
Memalilaqua, Knight Inlet」(1912年)(National Gallery of Canada, Ottawa所蔵) 


だが絵も売れず、生徒もほとんど集まらないアトリエを維持することは難しく、閉鎖することを余儀なくされ、ビクトリアに戻る以外に道がない羽目に陥ってしまう。
 
姉妹たちもエミリーの新しい絵を嫌い、新画法で絵を描き通すことを「狂っている」と非難した。

彼女たちは「生徒は来ない、絵は売れない、飢えるだけよ。旧来の画法に戻りなさい!」とうるさかったが、エミリーは「私は飢えた方がよっぽどいいわ」と突っぱね、「古い描き方は死んでいて意味がなく空っぽ」とやり返した。


家庭内でのエミリーは孤立無援で、急進的な画法は家族の不名誉とさえ考えられてしまった。 

ボーディングハウスの女主人
しかし何はともあれ、生活をしていかなければならない。

一時は父親が残した広大な土地があったが、町の区画整理で分割されていた。税金の高騰も手伝って土地を売り、姉妹たちはそれぞれに与えられた自分の土地を所有し維持することになった。
 

エミリーは、借金をして4部屋ある「Hill House」と呼ぶボーディングハウスを建築し、家賃で生活のめどを立てようと計画した。

そうなれば絵も自由に描けると踏んだのだろう。二階にはアトリエとして採光が入る窓が幾つもある一部屋を設けている。
 

episod3     episod3
ビクトリア市 646 Simcoe Streetに今も残る建物。アトリエ用に窓の多い部屋を二階の端に造った 



episod3
裏庭からの眺め。この家は現在の家主が手を加えているとは思えない状況で、残念ながらだいぶ荒れている


 時は第一次世界大戦(19141918)ぼっ発の時期。
戦争に行った人々に代わって、職を得ようとする荒くれた人々が町に流れ込み、ビジネスには未熟な女主人につけ込むことも多かった。

家賃からの収入だけでは一軒家の維持は十分でなく、エミリーは家計のやり繰りのためにあらゆる仕事をしなければならなかった。
 

例えば、除隊した兵士の慰みになるという牧羊犬イングリッシュ・ボブテイルの子犬を一時は350匹ほども飼育したり、焼き物用の窯(かま)を作って陶器を焼き、そこに先住民のモチーフで装飾を施したり、また敷物を作るなどして乏しい家計を補うことに必死であった。 



先住民のモチーフを描いた壁掛け陶器や針刺し(1924-1930年) (Vancouver Art Gallery, Bequest of Alice Carr, Victoria 1951)


この間には、1919年に長姉(Edith)と次姉(Clara)が相次いで亡くなっており、エミリーは自分が芸術家であることなどは、ほとんど忘れるくらい日常生活の雑用に追われる日々を送っていた。

それでも時には、女性向けの雑誌に挿絵(さしえ)を描く仕事を引き受けたり、また通信教育でショートストーリーの書き方を習う「文章作法」のコースを受講したりもしていた。

おそらく、殺伐(さつばつ)とした日々を送りながらも、心のどこかに多少なりにも潤いや慰めを求める気持ちがあったに違いない。


そんな日々の1927年のある日、オタワにあるカナダ国立美術館から一本の電話が掛かって来た。

この出来事がエミリーのその後の運命を大きく変えることになるのだが、もちろんその時の彼女はまだそんな事を知る由もない。


用件は、国立美術館で西部カナダの先住民の絵画展を開催したいので、絵を出品して欲しいとの要請であった。当然ながらエミリーは驚愕(きょうがく)した。

その頃の東部では、「Group of Seven(G7)」と呼ばれる7人の男性アーティストが台頭しており、カナダの絵画界の大改革を行なっていたのである。

しかし、生活に追われていたエミリーは、彼らの存在も、またカナダに国立美術館があることさえも知らなかったのだ。
 

やがて絵の下見に来た国立美術館の人に、東部における芸術の最新事情を聞かされ、さらには、トロントやオタワに出向き、この7人の画家たちに会うことを勧められた。

余りにも唐突ながら久し振りの刺激的な話に、忘れていた絵画への情熱が再燃し、すぐに東部に出向く決心をした。
 

今は2人だけになってしまった姉たちに相談したところ、意外にもすんなりと「行けない理由は何もないじゃない」と快く賛成してくれた。
その上に、留守宅のボーディングハウスなどの世話も引き受けることを約束してくれたのだ。
 

さあ、55歳のエミリーの運命はここから大きく転換するのである。 

(次回に続く) 








 

エミリー・カーの波乱万丈人生 (2)

自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)

初めてのヨーロッパ(英国)に絵の勉強に行くが、しかし病をえて帰国

 
 

episode2
エミリー・カーの生家前の案内板 


イギリスへの旅
この時までのエミリーの絵は、普通の美術学校でのカリキュラムに基づくもので、一般的な静物画、肖像画などが中心ではあったものの、段々と純粋な風景を中心とする方向へと傾いても行った。また同時期には、詩を読む楽しみも生活の一部になっていたようだ。 

episode2
静物画「メロン」1892年、サンフランシスコでの作品 1899  (BC Archives and Record Services: Catalogue PDP 650)
 
episode2
風景画「Cedar Canim’s House,Ucluelet 1899  (BC Archives and Record Services: Catalogue PDP 2158)

そして1899年には、絵画教室からの収入をロンドン行きの旅費に蓄えたことで、それまで長い間秘めていた思いを吐露し「私、ロンドンに行くわ」と周囲に告げたのである。

もちろん絵画の道を極めるのが目的であった。その旅の始まりは、東海岸から大西洋を渡る船に乗るまでの、大陸横断の寝台列車から始まった。
カナダの余りの広さに息をのみ、ロッキー山脈の起伏やその頂上に雲がかかる様子に心を躍らせたが、それらはまさに、エミリーの持つ生来の自然への思い入れそのものを、自身の目で確認するものだった。
 

サンフランシスコと今回の旅との大きな違いは、アメリカという新興国へ行くのではなく、古い伝統と歴史のある欧州(ロンドン)への旅であったことだ。
10日間の航海中からすでに、興味深い船客との出会いを体験しながらやがてロンドンに到着。 

折しもイギリスは、ビクトリア女王時代の終焉(しゅうえん)を迎えた時で、亡くなった女王の柩(ひつぎ)の葬列を見送る人々の様子や、長い伝統のある王室に対する庶民の思い入れも目のあたりにすることが出来た。

また、そうした国に住む堅実で厳格な人々との交わりは、新生カナダでの生活からはほど遠いことを感じながら、「旧世界」との出会いを興味深く観察している。
 

しかしここでの生活は、カナダと同じように国として浅い歴史を持つサンフランシスコでは体験しなかった「植民地からきた人間」という、軽べつ感を感じさせられることも多かった。 

まず、入学することになったウエストミンスター美術学校の受付で、「(カナダの)西海岸ではスターでも、文明国で競争するのはかなり大変よ」などとあからさまに嫌味を言われショックを受ける。

また入学後、実技クラスで初めて女性のヌードをデッサンする時には、モデルの裸にドギマギしながらも、その肉体の美しさに息を飲み羞恥(しゅうち)心が一掃された。

サンフランシスコでも似た経験をしたが、これは肉体はみだらで隠すべきものであって「美しいもの」として教えられなかったためだが、改めてここでも驚きを隠せなかったのである。
 

ロンドンに来て一年目には、エミリーが一番好きな姉(Alice)が2カ月ほど遊びに来たことがあった。しかし姉は絵画には一切興味を示さず、作品を見ることも、それについて聞くこともしなかった。この出来事は、以後、家族に対し彼女の芸術への情熱を心の奥深くに押し込め、封印する決心をすることとなる。 

episode2
イギリスでの生活を描いた素描 1901 (BC Archives collection, Royal BC Museum corporation, Victoria, PDP 6112, 6114, 6116, 6125)

もう一人記すべき訪問者は、エミリーに長い間思慕を寄せていた男性である。カナダにいた時にプロポーズした人で、3カ月の休暇を取り、わざわざロンドンまで彼女に会いに来たのだ。

伝記によると、その間に彼は毎週5回は「結婚しよう」と申し込んだようだが、その度にエミリーは「ノー」と言い続けた。
 

今、私たちがよく目にするエミリーの写真は、頭に網のボンネットをかぶり睨(にら)むような目でカメラを見返す晩年のショットが多い。だが、若い娘時代の素描や写真などは、意志の強さは紛れもなく感じるものの、目の大きい整った顔立ちであった。 

episode2
晩年のエミリー・カー Emily Carr in Her Studio with “Sunshine and Tumult, 1939年、 National Gallery of Canada and Archives , Ottawa
(撮影: Harold Mortimer Lamb 1891- 1970)

episode2
▲2122歳のころのエミリー・カー(BC Archives collection, Royal BC Museum Corporation, Victoria)  

この男性は、エミリーがカナダの先住民の村を訪ねた時に乗船した船のパーサーだったとか。

プロポーズを断ったことをロンドンの下宿先の女性に話した時には、「なんてオバカさんなの! これ以上いったい何を望んでいるの? 王子さまを待っているってわけ?」と驚かれたが、エミリーは「誰も待ってなんかいないわ。私はロンドンに絵の勉強に来たのよ」と平然と答えている。
 

結果的に英国滞在は5年半になるのだが、最後の一年半ほどは種々のストレスが重なり、病魔に冒されてサナトリウムに入院するという悲劇を味わうことになる。

インフルエンザから気管支炎を発症しヒステリー状態にもなるなど、病状が悪化するに従い、医者からカナダに戻ることを止められてしまうのだ。
 

episode 2
生家に飾られている靴のレプリカ。ロンドンでは足の古傷が悪化し靴も履けないほどの大変な経験もする 



挫折と病魔
意気揚々とロンドンに行ったにもかかわらず、また、自らを鼓舞して芸術の深みをより探求したいという強い思いを持ちながらも、最後には挫折という負の思いを抱きながら帰国しなければならなかった彼女の心境はいかばかりであっただろう。

心身ともに打ちのめされていたものの、小康を得た折に医者からカナダに帰る許可が出たのは1904年であった。 

episode2
イギリスのサナトリウムに入院中、ベッド脇でひな鳥を飼育していたときの自画スケッチ。動物好きなエミリーはいつも周りに生き物を飼っていた(1903年)( Clarke Irwin and Co.Ltd, Courtesy Stoddart Publishing Co. Ltd)

嬉しかったのは、心身共に落ち込んでイギリスを離れようとしている時に、BC州の内陸部にあるカリブー地方(http://www.southcaribootourism.ca/)に住む友人から「ビクトリアに帰る途中に、ぜひ私たちの農場に立ち寄って」との手紙を受け取ったことだった。

この招待は、異国でエミリーが味わった敗北感や、また故郷の人々に「ロンドン行きは失敗だった」と認めさせる結果になるのを少しでも和らげるという意味で、貴重な小休止になったのだ。

2カ月ほどの滞在中には、農場のポニーに乗って遠出をしたり、野原で雁の群れが餌をあさるのを細かく観察したり、またコヨーテの鳴き声におびえたりもした。しかしこの間は体力回復という目的もあって、絵筆を脇に押しやって制作を一切絶っていた。 

夫婦で農場を経営する友人は、エミリーとの再会を喜び温かく迎えたものの、「あなたはカナダを出た時と比べ成長も洗練もされてもいない」とか「目を閉じてロンドンを通過したんじゃない」などとあからさまに言われたりもした。

長い英国生活にもかかわらず、表面的には洗練されたとは言い難い、変化の余り見られないエミリーの様子に友人は驚いたのだろう。
 

カリブーでの休暇は体力を回復するのに確かに役立ったが、友人との再会は表向きは仲良しの古い友だち同士を装ったものの、離れていた年月はお互いを全く異なった方向に向かわせていたのだ。

二人の間に距離を感じずにはいられなかったエミリーには、「彼女はもう友達でも知人でもない」と心の底で思い知る結果になったのだ。
 

再び故郷へ
5年半ぶりに32歳で故郷のビクトリアに戻った時、いやが上にも知らされたことは、周りのすべてのものが自分と同じ年月だけの齢(よわい)を重ねていたことだった。

親しかった友人たちもそれぞれの道を歩んでいた。エミリーは誰も自分と同じ方向に歩みを進めることはないし、自分も他人の進む道に興味はないことを痛感し、以後、新たな友人関係を築くことに一生懸命にはなれなかったという。
 

元の生活に戻る日々の中では、時間の多くを牧羊犬を連れて馬に乗り、森に出かけては自然の中に身を置くことに費やした。そんな折、時にはロンドンの喧騒(けんそう)を思い出すこともあり、カナダの森との漠然とした類似点に気付いたりもした。

それは全く違う2つの場所ながら、とてつもない力や深さ、また強靭(きょうじん)さを持っていると感じるのだが、しかし一方、似ているのはそこまでとも思うのであった。
 

そしてあくまでも垂直に伸びている、冷たい樹液を湛える森の木々を両手で抱きしめながら、西海岸に戻ったことに心からの安堵(あんど)を覚えたのだ。

しかし残念ながら、ビクトリアには昔と変わらずに「芸術家」と呼ばれる人々はいなかった。だが、エミリーは絵画教室を開き、雑誌に挿絵を描く仕事をこなしたりしながら、Ucluelet(ユクルーレット)への再度の旅も試みている。 


episode2

episode2
episode2
 
▲1909年に創ったカレンダー用のスケッチ。時にはこんな軽妙な絵も描いていた (BC Archives collection, Royal BC Corporation , Victoria PDP 6071,6078,6074)

episode2
水彩画「Totem Walk at Sitka」(1907年) (The Thomas Gardiner Keir Bequest, AGGV所蔵)

そんなある日、友人に誘われるままバンクーバーに渡って、そこにある芸術クラブで上流婦人たちに絵を教える職に就いた。

しかし、彼女たちが期待したのは「ロンドンで数年間絵の勉強をして来たおしゃれな絵の先生」であって、エミリーはその対象にはならず、すぐに解雇された。             
 

もちろん彼女自身もそんな雰囲気に居心地の良さを感じるわけもなく、辞めさせられたことに喜びこそすれ、不満はなかった。

それをきっかけに今度は子どもたちを集め、室内のみに留まらず、戸外にスケッチに連れ出すなど、柔軟な教え方をする絵画教室を開いたのだ。これは大当たりで、
70人余もの生徒が集まり大好評だった。 

episode2
Wood Interior」(1909年) VAG所蔵, Emily Carr Trust

1907年の夏には、ロンドンにも訪ねて来た姉 Alice と共にアラスカへ3週間の旅を楽しんだ。ちょうど砂金の発見でクロンダイク・ラッシュに湧いていた時代であったため、船で同乗した一獲千金を夢見て集まる男たちを興味深く観察している。

以後、バンクーバーで教えている間、毎夏北への旅をして多くの先住民の村々を訪れ、トーテムポールにのめり込んでいくが、絵の対象としてこれを描くのはそう簡単ではなかった。
 
言葉を持たない先住民たちは、象徴的な模様を念入りに彫り、時にゆがみの手法を用いたりするなど、その方法は複雑で、神秘的な怪物や自然界の生き物を模したり、実際にあった話や想像を屈指したものを表現したりして作品を仕上げる。

形も大きさもさまざまで、太くて短いものや、とてつもなく背の高いものあり、家族の歴史を後世に伝えるための個人的なものから、種族全体に関係したものなどいろいろなのだ。
 

エミリーはこの時期を機に、失われていく先住民の文化遺産を描き記録していくことを決意するのである。 

episode 2

episode2
今もビクトリア市内には色鮮やかなトーテムポールがそこここで見られる 

先住民との接触で彼らから多くを学んだことを思い、誰がこの広大なカナダの森や空間を理解する助けをしてくれたただろうかと考えた。

だがそれは、サンフランシスコでもロンドンでもなかった。


では、当時、ニューアートの盛んなパリでは、いったい自分の絵をどのように評価するだろうかとの思いが沸々湧き、絵画の新たな動きを学ぶため、またしても欧州行きを決意するのである。 

バンクーバーでの絵画教室が順調だったことで、資金のやり繰りの目処が立ったころ、ビクトリアの家族に「パリへ行くために貯金しています」との手紙を送った。

しかしそれを受け取った家族は、「ロンドン行きは十分に強烈なレッスンではなかったのか」と、困惑の色を隠せなかったのである。



(次回に続く) 




 
 

エミリー・カーの波乱万丈人生 (1)


自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)
 
カナダのブリティッシュ・コロンビア州ビクトリア市にある生家を通し、たぐいまれな画家の生い立ちを追う


 
 episode 1
晩年のエミリー・カー Emily Carr in Her Studio with
1939年1月、 City of Victoria (PR73-4962M00666) 
(National Gallery of Canada,Vancouver Art Gallery,Douglas & McIntyre共同出版の表紙より)




春から夏にかけての観光シーズンを迎え、別名「ガーデン・シティ」と呼ばれるのに恥じないBC州ビクトリア市は、すでに街中の花壇に花が咲き乱れ、ツーリストを迎える準備に大忙しだ。

4月末には早くも2600人を乗せた大きなクルーズ船が到着した。これから夏にかけては、カナダドル安の影響もあり、こうした大型客船だけでも230艘、510万人ほどがビクトリアを訪れる予定という。

ビクトリアは小さな街ながら、観光スポットは幾つもある。そのハイライトの一つが、ダウンタウンから徒歩でも行けるエミリー・カー(以下エミリー)生誕の家である。 

episode 1
エミリー・カーの生家と前庭 

episode 1
生家の前の通りは昔、こう呼ばれていた。その名残り 

折しも、オンタリオ州トロント市のダンダス通りにあるアートギャラリー・オブ・オンタリオ(AGO)では、「From the Forest to the Sea : Emily Carr in British Columbia」と題する展覧会が8月9日までの予定で開催されている。(http://www.ago.net/emilycarr 

この展覧会は、昨秋英国のロンドンでも同名の作品展が開かれた。最初、ロンドンっ子たちは「Emily Who ?」と言っていたが、幕を開けた途端に人気に火がつき、開催が1週間延期となったほどだ。 

episode 2
2014年秋に英国ロンドンで開催した展覧会のカタログ本 

画家であり、晩年には作家として興味ある幾つもの作品を残しているエミリーは、当然ながら、カナダではとみに知られているものの、日本での知名度は残念なことにイマイチの感があることは否めない。 19453月に73歳で亡くなったこのアーティストの生涯は、波乱万丈に富み、知るほどに興味が尽きない人生を送った女性である。 

AGO
での展覧会に足を運んだり、あるいは今夏、ビクトリアのエミリーの生家(https://www.emilycarr.com/)を訪れたり、バンクバーのArt Gallery of Greater Victoriahttp://aggv.ca/, Vancouver Art Galleryhttp://www.vanartgallery.bc.ca/index.html)で更なる作品を見る機会があるなら、彼女のバックグラウンドをより知ることによって興味も一層深まることだろう。 

その一助になればと思いビクトリアの地から「エミリー・カーの物語」をお送りする。
 
                     
 
家族
亡くなってから今年ですでに70年たつ画家であり作家だったエミリー・カーを語るには、まず、その生い立ちから紹介しなければならないだろう。 

名前からも判断できるように、エミリーの両親は英国からの移住者であった。しかしビクトリアには本国から直接来たわけではない。父親(Richard)は、若い頃、ゴールドラッシュ景気に沸く米国カルフォルニアに行き、波に乗ってのビジネスでかなりの資産を作ったと言われる。その後、英国に戻りエミリーの母親(Emily =娘と同名)と結婚している。 

episode 1





 
父親 Richard

episode 1
母親 Emily

一説によると、母親は婚外子として生まれたといわれており、当時そうした環境での出生の場合、北米に送って家族関係から引き離す風習があった。そのため、彼女も一時的にアメリカに行ったこともあったが、二人の出会いは英国で近隣同士だったとか。出生のことは承知でリチャードは18歳年下の妻エミリーと結婚し、今度は二人して再度カリフォルニアに渡ったのである。 

そこで彼女は娘2人(1856年にEdith1857年にClara)を出産。その後、一度英国に戻り2人の息子を産んだものの生後数日で亡くしている。そして3年後には家族でカナダ・ビクトリアに移住し、3人目の息子を出産したが、やはり5カ月で死亡した。 

この時点で息子3人はすべて亡くなってしまったわけだが、以後、Elizabeth1867年)、Alice 1869年)、Emily1871年)の3人の娘に恵まれた。女の子たちは無事に成長したものの、娘エミリーが4歳の時に生まれた弟 Richard1875年)は後に23歳で夭逝(ようせい)した。 

episode 1
Richard Emily 

当時は子だくさんである一方、幼児期の死がまったく珍しくなかったのは、カナダに限ったことではなく痛ましい限りだが、母親は結婚以来20年ほどの間に9人の子供を産み続けたことになる。 
 


episode 1
姉妹5人(1888年)。右下が五女 Emily、(時計回りに)四女 Alice、三女 Elizabeth、長女 Edith、次女 Clara  (Five photos above are at Emily Carr’s House)
上記の写真4枚はエミリー・カーの生家にて)


こうした家系に生まれたエミリーは、家族の中では上から8人目、下から2人目に当たるわけで、生き残った5人姉妹の長姉(Edith)とは15歳の年齢差があった。 

非常に躾(しつけ)の厳しい母親ではあったが、50歳で亡くなった時、エミリーは14 歳(カー家の墓石の齢。自伝には12歳となっている)の多感な年頃であった。母への思慕は深く、残された著書によると「母はいつも静かな女性だった。子どもにさえも少々はにかみやだった」と書かれており、「もし母が、もっとガミガミとうるさかったり、静か過ぎたり、もっと指図をする人だったり、愛情を注がない人だったとしたら、私にとって文句のないいい母親とは言えなかっただろう」と温かい思い出を持っている。 

一方、父親は、鉄のように不屈な意志を持った人だったようだが、妻の従順で辛抱強い、それでいてしっかりと押さえどころを知っている存在があっての一家の長であったようだ。
姉妹の中で父親に一番可愛がられたのはエミリーで、また絵の才能をいち早く見つけたのも父親であった。 

ある日、焼けた木炭を使って彼女が犬の絵を描いた時、父親は「Um!」と言っただけだったが、のちに見つかった書類の間に挟まれていたその絵の片隅には「エミリー、8歳」としっかりと記されていた。しかし強靭(きょうじん)な精神の持ち主だった人も、妻が50歳で亡くなった時の落胆ぶりは大変なもので、その後は孤独感にさいなまれ、2年後、70歳で妻を追うように昇天した。 

外から見れば、父親を長として仲良くまとまった家族に見えたことは疑いの余地がない。5人の姉妹たちはそれぞれの個性を持って元気に生き抜いたが、その中でただ一人、次姉の Clara だけがエミリーが10歳の時に結婚している。

夫は英海軍に勤める技師だったが、のちに5人の子供を置いて失跡してしまった。この出来事は特に三女の Elizabeth に多大な悪影響を与え、結婚に対し非常に懐疑的になったと言われる。加えて同じ理由かどうか定かでないが、他の4人姉妹も一度も結婚をしなかった。 



独り立ち
両親が亡くなってから残された5人姉妹と息子一人の暮らしは、金銭関係のことは知り合いの保証人が引き受け、家庭内では長姉の Edith にゆだねられた。

彼女は、母親譲りのしっかりとしたしつけを妹たちにほどこそうと試みたが、自由奔放なエミリーにはたびたび手を焼いたようだ。我慢が尽きると鞭(むち)で容赦なくたたき「かわいそうなお母さんはあなたを置いて死ぬのをとても心配していたのよ。他の子どもたちは良くわきまえて行儀がいいことを知っていたから満足していたけど、あなたは違うのよね!」と言い放ち、エミリーを精神的に打ちのめした。 

その反抗期には、乗馬で自然の原野が広がる郊外へ出かけることによってエミリーは傷ついた心を癒やした。だが、これは後に彼女の終身の絵のテーマとなった広大な森、吸い込まれるような大空などの原風景を余すことなく身に感じた体験で、「私の作品を生むまさに土台になる所だった」と言っている。 

折り合いがうまくいかない厳格な姉の支配から逃れるには、家を離れることだと決心したエミリーは、19歳になる直前の1890年晩秋に、サンフランシスコで絵の勉強をしようと決心し、一人旅立つのである。下宿先は、昔ビクトリアのカー家に半年ほど住んでいたことのある家族の家に滞在することで長姉を説得したが、エミリーはこの人々にもいろいろと気をもませることが多かった。 

だが、サンフランシスコ美術学校では絵の勉強に専念するかたわら、いろんな国から来た多くの学友たちと交わり、刺激的な出会いを体験するのである。家族、特に長姉の仰圧から開放され、のびのびと学び、大きく成長した時期でもあった。 

当時のサンフランシスコの町の様子、そこに生きる人々の生活などが、人生の後半で文章をつづるようになってから記した「Growing Pain」という書物の中には実に生き生きと語られている。

いろいろなことに興味を示しながらも、しかし、生まれ育ったクリスチャンとしての宗教的なバックが、画材の裸体に対する思いをどのように受け取ったかを書いた個所などは興味深く、今の時代に読むと笑いさえ込み上げてくる。

 
それは「Difference Between Nude and Naked 裸体と裸の差)」のエピソードに書かれている。「私の家族は非常につつしみ深かかったため、それはまるで暗い部屋で入浴する時でも水着をつけるに等しいようなものだった。彼らの考えている美というものは、衣服の下の生きた人間の体にあるのではなく、それを包む衣類だったのだ」とある。 


結局、サンフランシスコには2年半滞在したが、この間に厳格な長姉の Edith が妹2人と共に1年もの長期にわたって訪問するなどの出来事もあったものの、エミリーは絵の勉強には熱心で、いろいろな思いを乗り越えて生活した。 

しかし当時のアメリカ西海岸の文化には、芸術を生みそれをはぐくむ潤沢な風土はなく、エミリーがカナダに帰国した時に持って帰った作品は、彼女自身も「退屈極まりなく感情の表現に乏しいものだった」と認めている。つまり非常に基礎的なことを学んだに過ぎなかったのだ。 

episode 1
▲1890-1893年ごろの作品「Wild Lily」(On deposit at Art Gallery of Greater Victoria from the Collection of the sisters of St. Ann, Victoria BC: Gift of Emily Carr in Memory of Elizabeth Carr 
(ただしこの写真は生家の庭に掲げられているもの)

帰国してからは絵画教室を開き子どもたちに教えていたが、当時のビクトリアには絵の展覧会などはなく、わずかに農産物などの品評会が行われる際に、絵画のコーナーを設けて出品するくらいのものであった。 

そんな鬱屈(うっくつ)した生活を送っていたある日、フランス人の画家と出会った際に「カナダの風景は絵にならないし、絵画を学ぶ場所はパリかロンドンだ」と言うのを聞き、また友人がヨーロッパで勉強していたこともあり、更に絵の勉強を極めるためにロンドンに行く夢をはぐくむようになって行った。 

一方エミリーは、少女の頃からアメリカ大陸の北西部に住んでいる先住民の世界に魅せられていたといわれるが、当時、この島での彼らの人口は白人と同じくらいだったようだ。

幼少の頃から日々の生活の中で、白人の家で働いたり、小さな果物や肉などを売り歩く彼らの姿を見ていたが、初めてバンクーバーアイランドの西海岸に位置する先住民の住む
Ucluelet(ユクルーエット、トフィーノの南=サーフィンなど海洋スポーツの名所として知られる)へ出かけたのは、サンフランシスコから戻って数年たった1898年で、この旅で初めて先住民を作品として描いたのである。 

ロンドン行きの夢はありながら、特にこの時期には西海岸の広大な自然の中で、彼女の一生のテーマとなる船や家など形のあるものを描き、その素材を使うことが出来るチャンスがある時のために作品のモチーフを蓄えていたという。


(次回に続く) 





 

惜しまれながら閉店する「The Original Christmas Village」 クリスマスの小物たちに囲まれたギフトショップ


子供ならいざ知らず、一年中クリスマスなんてちょっと飽きてしまうのではないかと思うのですが、こんなに可愛らしい小物たちに囲まれているのなら、その心配はないようです。
このごろは、オンタリオ州の Niagara-On-the-Lake にも「Just Christmas」などというお店があるように、赤い服に太鼓腹を隠したサンタクロース、白や金銀で縁取られたエンジェル、いつも真顔のナットクラッカーの兵隊さんなど、クリスマスになくてはならない飾りものを専門に売る店が珍しくなくなりました。 



▲ビクトリア市の「The Original Christmas Village」、お店の外観 


▲チャイナタウンの入り口 

ビクトリアの「The Original Christmas Village」は、カナダで一番古いというチャイナタウンのすぐそばの繁華街にあります。
建物の屋根には、足を組み、プレゼントにひじをついてちょっと一休みといった風情で、街を行く人たちを見下ろしているサンタクロースが座っていて、チャイナタウンの門構えと共に町のシンボルになっています。 

ビクトリアの市民は一年中買い物が出来ますし、太陽がいっぱいの夏のシーズンは、特に観光客で大賑わいです。
 


▲店内はご覧のとおり、クリスマスの飾り満載 


▲とにかくクリスマスムードいっぱい。これが店の中とは思えないほどです 

店は、ドイツ人の Falk & Gudrun Reinhold 夫妻が27年前にオープンし、ずっと同じ場所で商売してきたのですが、このユニークな店を閉めることになり、マスコミが大きく取り上げています。理由は、ご主人の Falk さんが去年亡くなり、残された Gudrun 夫人ひとりではビジネスの管理をするのが難しく、リタイアすることに決めたとのこと。 

オーナーがドイツ人ということで、本国から取り寄せた木製の小さな置物があちらこちらにあり、その精巧さが目を引きます。
「ビジネスは誰かが買い取るのですか?」の質問に、「いいえ、そのつもりはありません」と Gudrun さん。 



▲店内には、ちょっと頭をひねって考える必要があるこんな看板も・・・ 

数え切れないほどの小物が並ぶ品々をすべて売るのは「可能なのかしら?」と思ってしまうのですが、このほど始まった大幅な値下げセールもあってお客様で賑わっています。
店内には何やら由緒ありげな古い日本人形やチャイナドールが並ぶ棚もあったり、イースターが終わったばかりのため関連の飾り物も置かれています。 



▲日本人形やチャイナドールも値下げセール 


▲カラフルなイースター関連商品 

このところ、米ドルが強いことを受けて、今年の夏はアメリカからの観光客が激増すると予測されています。また、日本や中国からのお客さまも多いようで、ちゃんと日本や中国などの国旗も飾られています。 


▲各国の国旗が飾られている店内 

春から夏は町が花であふれ、ガーデンシティーの名にふさわしいビクトリア市。お越しの節はぜひ、この店が閉店する前に立ち寄ってみてはいかがですか。 

The Original Christmas Village 
1323 Government Street, Victoria (at Johnson Street)
Tel : 250-380-7522 





 


ヴィクトリア市「エンプレス・ホテル」のシンボル


E Hotel


ウィーピング・セコイアの木が伐採されました

バンクーバーアイランドのビクトリア市を一度でも訪れたことのある人は、ダウンタウンのど真ん中に位置する Empress Hotel の前に立ち、この奇妙な形をした通称 Weeping Sequoia(ウィーピング・セコイア)と呼ばれるヒノキ科の常緑針葉樹を見て驚いた経験があることでしょう。そして、写真に収めようとシャッターを切り、また木々と一緒に記念写真を撮った人も多いことと思います。 

E Hotel
訪れる人々の人気者だったウィーピング・セコイアのペア(2014年6月1日撮影) 

ホテルの正面入り口に向かう道に、巨大な2頭のマンモスか、あるいは象がノッソリと立っているかのように見え、思わず笑いが込み上げます。ツーリストは必ず足を止め、正面から、横から、斜め後ろからと、あきずに眺める光景は、観光シーズンが始まると必ず見られる夏の風物詩だったのです。 

ところがこのユーモアいっぱいの2本の木が、先週の4月2日、バッサリと切られてしまいました。理由は、根がはびこり過ぎて、ホテルの小径(こみち)にはい出し、お客さまに迷惑がかかるためとのことで、市も伐採の許可を出しました。 

E Hotel
4月2日、2本の木がバッサリ切られた後の風景(4月3日撮影) 

E Hotel
残された切り株(4月3日撮影)  

各国からの要人が必ず宿泊する107年の歴史と477部屋もある由緒あるホテルは、ビクトリア市民にとっては大きな誇りですが、昨年8月に売りに出されました。 

新オーナーは、バンクーバー出身のイタリア系移民2世のビジネスマンで、一家で手広く不動産業を営む Bosa Development Corporation です。3,000万ドルで購入しましたが、今後は大きなリノベーションをして、新装新たなホテルに生まれ変わる計画が立てられています。しかし、重厚な雰囲気を持つ外観には出来るだけ手を加えず、引き続き当市最古のホテルの一つである偉容を保つように心がけるとのことです。 

 E Hotel
ホテルの廻りにはすでに花が咲き乱れていますが、まだ観光客はそれほどでもありません。
でも今夏、再訪される方がいたらきっとガッカリすることでしょう。







 

ヴィクトリアでのイースター

春の兆しを感じてからすでに随分と日が経っているヴィクトリアですが、イースターを迎えて一段と、季節の移り行く様子を目にします。

贅沢なことですが、花が咲き乱れる風景はもうお馴染みになりました。
それでも思わぬところにワッと咲いている花を見ると、思わずカメラを向けてしまいます。


Easter

当地に来てからまだ一年も経っていないものの、その最初の年という事がもちろんあるのでしょうが、撮った写真はざっと数えただけで7千枚以上になっていることに我ながら驚いています。

Easter

梅や早咲きの桜が終わり、普通の桜が終わり、今は八重の桜がそこでもここにでも真っ盛りです。

Easter

sakura

sakura



昨日はイースターの祝日でしたが、トロントにいては考えられないような過ごし方をしました。

まず拙宅のすぐそばにある海に突き出た小さな半島の先で、6時半ごろの日の出と共に行なわれた早朝礼拝に出ました。

小さなグループでしたが、キャンプファイヤーが焚かれ、集まった信者たちはキラキラと輝く眩しい陽光を浴びながら賛美歌を歌い、キリストの復活を讃える日に相応しいとても神秘的な幕開けの礼拝でした。


Easter

Easter

朝が早いため後ろを見れば、朝日に少し染まった薄墨いろの空にはまだ月も見ることができました。

Easter

人々のつながりが教会を通して行なわれるのは何処も同じですが、こうした行事に特に熱心なのがunited church(合同教会)で、この礼拝も拙宅の近くにある教会が執り行いました。

Easter

ちなみにunited churchはゲイ、レスビアンの聖職者をいち早く受け入れた教会で有名です。どの教会でもそうであるように、この教会も折りあるごとに恵まれない人々を救済する各種の行事を行なっています。

Easter
はき慣れたちょっと古いソックスを集めてそれを必要とする人々に送ったり、朝、パンを提供する行事を知らせるポスター

その後は、子供たちを交えた行事を常に行なう家族的な雰囲気の通いなれた教会で、弦楽四重奏とトランペットの演奏する礼拝を、そして午後には、当地で唯一の日系教会にも出向き期せずして3つの礼拝を体験したのです。

Easter
子供たちが生の花を十字架にさして飾っている。後ろには弦楽四重奏の演奏者たちやコーラスグループ座っているのが見えます

「きっと頭の後ろからは”後光”が射しているかもしれないわね」と冗談を言ったら、「それだけの回数の礼拝に行ったら、少なくとも一年間は神のご加護があるよ」なんて冗談で返されました。

私は、幼児洗礼を受けたキリスト教徒であり、神は信じるものの、長じてはどの宗派にもどの教会にも属さない生き方を貫いて来たため、その時の気持ちの赴くままに礼拝やミサに出席します。これからもこの生き方は変わらないことでしょう。

今日のように幾つもの教会を廻れるのは、ヴィクトリアがコンパクトにまとまった運転しやすい町であるからと言うのは確かでしょう。




 

トロントのメルマガ「e-nikka」に掲載

カナダ西海岸で初の「錬士」称号を取得

karate
海辺でポーズを取る錬士ケン・マーチテイラーさん(photo by Enise Olding)

ケン・マーチティラー(Ken Marchtaler)さんが初めて武道に興味を持ったのは、まだテイーンエージャーだった1973年ごろのこと。当時若い男の子たちの夢は、かっこいいブルース・リーのようになることだった。

マーチティラーさんもまさにその一人。だが、カンフーを習い始めたものの、ブルース・リーのような技や体躯(たいく)を得るには、気が遠くなるほどの努力が必要なことに気付くのに時間は掛からなかった。

 
当時、北米で道場を開いていた先生たちは、 日本をはじめとする東洋の国々に軍関係の仕事で駐屯した際、技を習得した人が多かった。そのため武道には不可欠な精神的な要素は二の次で、とにかく強くなることが第一。

大声でどなり、時には竹刀(しない)やベルトなどで容赦なく体罰を加えることも辞さなかったのだ。

そんな指導について行けず、マーチティラーさんは半年ほどで辞めてしまった。

しかし武道というものにはそれからもずっと興味を持ち続けていた。だが、そんな思いとは裏腹に、大学卒業後の実生活ではカナダの大手銀行に就職し、銀行マンとして
40代初めまで仕事をしていた。

中西部の町々での勤務もあり、中堅のマネジャーとして活躍したものの、ある時、トロントへの転勤を打診されたのを機に退職し、生まれ故郷である西海岸に戻って来たのである
 
それまでには何度か出張でトロントにも行き、エキサイティングな大都市であることは知っていた。しかし彼の目には、行き交う人々はただ黙々と働くファクトリーワーカーのように映り、家族を伴って住みたいという決心はどうしてもつかなかった。
 
出身はバンクーバーだが、妻の家族がビクトリアでペイントのビジネスをしていたことで、海峡を渡ってビクトリア島に移り住み、しばらく家業の手伝いをしていた。

と同時に、若いころ短期間ではあったが足を踏み入れた武道には興味を持ち続けていたため、中断期間はあったものの、
1990年初頭から真剣に練習を再開していたのだ。
 
武道と一口に言っても、柔道、合気道、空手道、太極拳など幾つもある。そんななか、マーチティラーさんが特に興味を持ったのは合気道で、のちには仏教的な思想を重視する沖縄空手に強く傾倒するようになった。

練習を重ねるうちに多くのトーナメントにも出場し、数々のタイトルも獲得するようになって行った。


karate
尊敬する小林流(しょうりんりゅう)の中里周五郎範士(右)が渡米した折のワークショップにて

小林流のロゴ

karate


こうしてのめり込むほどに、世界的に名の知れた World Marital Art Game(国際武道大会)や、国際オリンピック委員会(IOC)と強い協力関係にあるThe Association For International Sport For AllTAFISAなどのイベントでカナダ側の役員として大いに活躍してきた。
 
karate
2008年9月、2800人の参加を得て韓国の釜山で行なわれたTAFIS主催の国際武道大会で技を披露するマーチティラーさん 

そして昨年12月には、黒帯伍段以上を保持する者のみが更に得られる3つのランク(錬士、教士、範士)の「錬士(Polished Master)」と呼ばれる最初の称号に挑戦し見事にパスしたのである。
 
カリフォルニアのチコ市(Chico)で行われたこの審査会は、4時間半もの長丁場であった。というのも、マーチティラーさんの場合は錬士を取る資格の出来る「黒帯伍」を同審査会でまず獲得し、次に錬士への挑戦を行ったため、心身共にこの上ない厳しいものであったと述懐する。

参加者は28人だったが、「錬士」を獲得したのは57歳のマーチティラーさん一人だけであった。ちなみにこの称号の保持者はオンタリオ州に6人ほどいるが、西海岸ではマーチティラーさんのみである。
 

karate
『錬士』の称号を得たカルフォルニア州チコ市の審査会で 

「統計的な裏付けはありませんが、大体、『黒帯初段』は100人に一人くらいの割合で持っているようです。でも、その後、『黒帯弐段』に進むのは大変なことなのです。世間一般では黒帯を持っていると、たとえそれが初段だとしても、すごい!と思われますが、これは大学を卒業してBAを得たと同じようなもので、単に基礎を学んだというだけに過ぎないのです」とマーチティラーさんは語る。
 
並みの日本人以上に、武道に精進しているマーチティラーさんの過去を知るほどに、さぞや日本とのつながりも深いかと思えば、訪日経験は201211月の一回だけ。

スポーツの発展と振興に力を注いでいる東海大学での講演に招待された時のみで沖縄に行く機会はなかった。

 
karata
東海大学での講演

東海大学では、「若い世代と武道、西と東の融合」を演題に、カナダを含む北米での武道の発展について語ったが、来年には再度の訪日を予定しており、その時は是非沖縄に言ってみたいと言う

カナダでも講演依頼は多い。特に学校で若い学生たちに向けて話す時は、「自己啓発の重要性」にふれ「正しいことを正しい時に正しく行う」ことを説くという。
 
2001年ビクトリア市内に道場を開き、「Warrior Martial Wellness Centre」と命名した。ここには男女を問わず100人ほどの生徒が通ってくる。

年齢は3、4歳くらいの幼児からシニアまでと幅が広い。過去には、マーチティラーさんの母親も練習に励み、
75歳でオレンジベルトを獲得するまで指導したという逸話もある。

 
karate
数々の写真や賞状が飾られたWarrior Martial Wellness Centre

飽きっぽい子供の練習を長続きさせるには、年齢別に小さなグループに分け、同年代同士で切磋琢磨(せっさたくま)できるようにすることが重要で、たとえ3歳くらいでも、結果が眼に見えるように工夫することで興味が湧き、姿勢よく座るなどの基本的なことはすぐに覚えるという。

 
karate
子供用に作成した練習達成カード。技を取得するたびにスタンプが押される 


武道の習得は相手を倒すためではなく、「あくまでも自分への挑戦」と強調するマーチティラーさんの目はゆるぎない自信に満ちている。
 
karate
 





 
 
 

【季節の花だより】 梅、シュロ、モクレン、そして桜並木と水仙と・・・春たけなわのビクトリア市南端



春うららの日が続くビクトリア市の南端に、陽気が暖かくなると人の行き来が俄然(がぜん)多くなる通りがある。

2月末から3月にかけて閑静な住宅街に観光バスや白い馬の引く馬車に乗ったツーリストが増えるのは、梅の花、シュロの木、モクレン(マグノリア)、そして2ブロックほど離れた通りに1.6キロほど続く桜並木を見に来るからだ。 

暖色の薄黄色に塗られた木造の家は、ごく普通の2階建ての住宅。だが、前庭にそびえ立つ15本のシュロの木はまさに「お見事!」と言うほかはなく、いやが上にも人の目を引く。

 
シュロの木

シュロの木
梅の花、シュロの木、モクレンがある家(3月12日撮影)

通称 Chinese Windmill Palms (学術名=Trachycarpus Foretunei)と呼ばれ、高さは7.6メートル、樹齢45年ほどたつというが、ここビクトリアはシュロの木が育つ北限とのこと。

もちろんこれほど立派に育成させるには、家主の絶え間ないケアがあってのこと。暖かくなる春ごろからは週1回、真夏には4日に1回1時間ほどの水やりが欠かせない。 

真冬に時たま降る雪のときは、葉に積もったパウダースノーを振り払うそうだが、今は余りに背が高くなり、それは出来なくなったものの元気にグングン育っている。

屋根の一部を切り取ってシュロの木に生育空間を譲ったりもしているが、根が張っても地下の水道管などには全く支障はないそうだ。


シュロの木
ムラサキのモクレン(3月12日撮影)

隣家にある紫(むらさき)のモクレンはこれから2、3日たつとその盛りを迎えるが、モクレン、シュロの木、梅の花のコントラストは暖冬の地ビクトリアならではの光景かもしれない。 

またここから2、3ブロック行ったところには、ヴィクトリアの中でも特に美しい1.6キロメートルも続く桜並木で有名なMoss St.がある。


桜並木
有名なMoss Street の桜並木(3月10日撮影)  

シュロの木
咲き誇る桜(3月10日撮影)

水仙


梅と違い桜の寿命は短いため、あと1週間もすれば桜の花びらで通りが埋め尽くされる。  


シュロの木
作家アリス・マンローの元夫が経営する本屋の前に開花した早咲き八重桜(2月20日撮影) 

シュロの木

2月半ばに満開を迎えた早咲きの桜はもう散ってしまったが、この八重桜は、2013年にノーベル文学賞を取ったカナダの女流作家アリス・マンローの元夫が持つ本屋さん「Munros Books of Victoria」の前にあり、本屋と共に有名な観光スポットだ。


また3月になって急に増えたのは至るところに咲く野生の水仙である。


水仙

水仙

水仙

水仙
「花盗人」よけの小さなサイン(3月14日撮影)







 

能(金春流)の公演会

トロントからBC州ヴィクトリアに国内移住して一番ミスすることの一つは、日本からの文化的催し物を見る機会が少ないことである。

トロントでは、例えば国際交流基金や日系文化会館などで開催される各種の催し物は、驚く程バラエティーに富んでおり大いに楽しめる。

もちろん日本に行けば見ることが出来るものも多いが、特に国際交流基金は、カナダ人に日本文化を紹介すのが目的のため、コンパクトにまとめた興味深い各種の催し物が常に用意されている。

絵画、陶器、歌舞伎、映画関連の集いなど、それぞれに手際よく作品を展示し、その期間に関係者を招待してのレクチャーなどを頻繁に行なっている。

だがそうした催し物をここヴィクトリアに期待するのは無理なことで、また果たして日本文化に興味あるヴィクトリア人のどれほどが会場に足を運ぶかは疑問である。

当然ながら当地でも、ローカルのカナダ人たちが催すオペラ、バレー、ジャズのコンサートもあるし、演劇も映画も常にやっている。

中にはきらっと光る歌手、演奏家、役者、作品もある。だがトロントで一流のを見慣れた目にはちょっと物足りないと感じることも少なくない。

そんな中、2月27日に日本から金春流の能の一団が来て、「Continuity&Connection(繋ぐ 〜多次元を〜)」と題する公演が行われた。


Noh

演目は、「翁」「高砂」「盤渉楽(ばんしきがく)」「羽衣」、そして「絆」であった。
演目はどれも謡と共に太鼓、笛、鼓が演奏され、物語も日本人としてはよく知っているものだ。

だが最後の「絆」では、「羽衣」の後半にジャズピアニスト木原健太郎(
http://kentarokihara.net/)の演奏する曲が加わり、謡、雅楽器と共に舞う天女の踊りがとても幻想的であった。

初めて見る洋楽器とのコラボレーションは、音楽の世界の可能性を十分に知ることが出来、
見ているものを実に不思議な世界にいざなってくれた。


Noh

見事に舞い終わり、演奏し終わった後の挨拶
Noh

スタンディング・オベーションの拍手を後に
Noh

岡田誠司ヴァンクヴァー総領事(右)も出席して歓談
Noh

1400年の歴史を持つ能楽最古の流派金春流を率いる山井綱雄氏とご夫人
Noh




 


calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>

selected entries

archives

links

profile

書いた記事数:85 最後に更新した日:2017/09/01

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM