エミリー・カーの波乱万丈人生 (1)


自然あふれるカナダ西海岸が生んだ鬼才の画家/作家
EMILY CARR 18711213日〜194532日)
 
カナダのブリティッシュ・コロンビア州ビクトリア市にある生家を通し、たぐいまれな画家の生い立ちを追う


 
 episode 1
晩年のエミリー・カー Emily Carr in Her Studio with
1939年1月、 City of Victoria (PR73-4962M00666) 
(National Gallery of Canada,Vancouver Art Gallery,Douglas & McIntyre共同出版の表紙より)




春から夏にかけての観光シーズンを迎え、別名「ガーデン・シティ」と呼ばれるのに恥じないBC州ビクトリア市は、すでに街中の花壇に花が咲き乱れ、ツーリストを迎える準備に大忙しだ。

4月末には早くも2600人を乗せた大きなクルーズ船が到着した。これから夏にかけては、カナダドル安の影響もあり、こうした大型客船だけでも230艘、510万人ほどがビクトリアを訪れる予定という。

ビクトリアは小さな街ながら、観光スポットは幾つもある。そのハイライトの一つが、ダウンタウンから徒歩でも行けるエミリー・カー(以下エミリー)生誕の家である。 

episode 1
エミリー・カーの生家と前庭 

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生家の前の通りは昔、こう呼ばれていた。その名残り 

折しも、オンタリオ州トロント市のダンダス通りにあるアートギャラリー・オブ・オンタリオ(AGO)では、「From the Forest to the Sea : Emily Carr in British Columbia」と題する展覧会が8月9日までの予定で開催されている。(http://www.ago.net/emilycarr 

この展覧会は、昨秋英国のロンドンでも同名の作品展が開かれた。最初、ロンドンっ子たちは「Emily Who ?」と言っていたが、幕を開けた途端に人気に火がつき、開催が1週間延期となったほどだ。 

episode 2
2014年秋に英国ロンドンで開催した展覧会のカタログ本 

画家であり、晩年には作家として興味ある幾つもの作品を残しているエミリーは、当然ながら、カナダではとみに知られているものの、日本での知名度は残念なことにイマイチの感があることは否めない。 19453月に73歳で亡くなったこのアーティストの生涯は、波乱万丈に富み、知るほどに興味が尽きない人生を送った女性である。 

AGO
での展覧会に足を運んだり、あるいは今夏、ビクトリアのエミリーの生家(https://www.emilycarr.com/)を訪れたり、バンクバーのArt Gallery of Greater Victoriahttp://aggv.ca/, Vancouver Art Galleryhttp://www.vanartgallery.bc.ca/index.html)で更なる作品を見る機会があるなら、彼女のバックグラウンドをより知ることによって興味も一層深まることだろう。 

その一助になればと思いビクトリアの地から「エミリー・カーの物語」をお送りする。
 
                     
 
家族
亡くなってから今年ですでに70年たつ画家であり作家だったエミリー・カーを語るには、まず、その生い立ちから紹介しなければならないだろう。 

名前からも判断できるように、エミリーの両親は英国からの移住者であった。しかしビクトリアには本国から直接来たわけではない。父親(Richard)は、若い頃、ゴールドラッシュ景気に沸く米国カルフォルニアに行き、波に乗ってのビジネスでかなりの資産を作ったと言われる。その後、英国に戻りエミリーの母親(Emily =娘と同名)と結婚している。 

episode 1





 
父親 Richard

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母親 Emily

一説によると、母親は婚外子として生まれたといわれており、当時そうした環境での出生の場合、北米に送って家族関係から引き離す風習があった。そのため、彼女も一時的にアメリカに行ったこともあったが、二人の出会いは英国で近隣同士だったとか。出生のことは承知でリチャードは18歳年下の妻エミリーと結婚し、今度は二人して再度カリフォルニアに渡ったのである。 

そこで彼女は娘2人(1856年にEdith1857年にClara)を出産。その後、一度英国に戻り2人の息子を産んだものの生後数日で亡くしている。そして3年後には家族でカナダ・ビクトリアに移住し、3人目の息子を出産したが、やはり5カ月で死亡した。 

この時点で息子3人はすべて亡くなってしまったわけだが、以後、Elizabeth1867年)、Alice 1869年)、Emily1871年)の3人の娘に恵まれた。女の子たちは無事に成長したものの、娘エミリーが4歳の時に生まれた弟 Richard1875年)は後に23歳で夭逝(ようせい)した。 

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Richard Emily 

当時は子だくさんである一方、幼児期の死がまったく珍しくなかったのは、カナダに限ったことではなく痛ましい限りだが、母親は結婚以来20年ほどの間に9人の子供を産み続けたことになる。 
 


episode 1
姉妹5人(1888年)。右下が五女 Emily、(時計回りに)四女 Alice、三女 Elizabeth、長女 Edith、次女 Clara  (Five photos above are at Emily Carr’s House)
上記の写真4枚はエミリー・カーの生家にて)


こうした家系に生まれたエミリーは、家族の中では上から8人目、下から2人目に当たるわけで、生き残った5人姉妹の長姉(Edith)とは15歳の年齢差があった。 

非常に躾(しつけ)の厳しい母親ではあったが、50歳で亡くなった時、エミリーは14 歳(カー家の墓石の齢。自伝には12歳となっている)の多感な年頃であった。母への思慕は深く、残された著書によると「母はいつも静かな女性だった。子どもにさえも少々はにかみやだった」と書かれており、「もし母が、もっとガミガミとうるさかったり、静か過ぎたり、もっと指図をする人だったり、愛情を注がない人だったとしたら、私にとって文句のないいい母親とは言えなかっただろう」と温かい思い出を持っている。 

一方、父親は、鉄のように不屈な意志を持った人だったようだが、妻の従順で辛抱強い、それでいてしっかりと押さえどころを知っている存在があっての一家の長であったようだ。
姉妹の中で父親に一番可愛がられたのはエミリーで、また絵の才能をいち早く見つけたのも父親であった。 

ある日、焼けた木炭を使って彼女が犬の絵を描いた時、父親は「Um!」と言っただけだったが、のちに見つかった書類の間に挟まれていたその絵の片隅には「エミリー、8歳」としっかりと記されていた。しかし強靭(きょうじん)な精神の持ち主だった人も、妻が50歳で亡くなった時の落胆ぶりは大変なもので、その後は孤独感にさいなまれ、2年後、70歳で妻を追うように昇天した。 

外から見れば、父親を長として仲良くまとまった家族に見えたことは疑いの余地がない。5人の姉妹たちはそれぞれの個性を持って元気に生き抜いたが、その中でただ一人、次姉の Clara だけがエミリーが10歳の時に結婚している。

夫は英海軍に勤める技師だったが、のちに5人の子供を置いて失跡してしまった。この出来事は特に三女の Elizabeth に多大な悪影響を与え、結婚に対し非常に懐疑的になったと言われる。加えて同じ理由かどうか定かでないが、他の4人姉妹も一度も結婚をしなかった。 



独り立ち
両親が亡くなってから残された5人姉妹と息子一人の暮らしは、金銭関係のことは知り合いの保証人が引き受け、家庭内では長姉の Edith にゆだねられた。

彼女は、母親譲りのしっかりとしたしつけを妹たちにほどこそうと試みたが、自由奔放なエミリーにはたびたび手を焼いたようだ。我慢が尽きると鞭(むち)で容赦なくたたき「かわいそうなお母さんはあなたを置いて死ぬのをとても心配していたのよ。他の子どもたちは良くわきまえて行儀がいいことを知っていたから満足していたけど、あなたは違うのよね!」と言い放ち、エミリーを精神的に打ちのめした。 

その反抗期には、乗馬で自然の原野が広がる郊外へ出かけることによってエミリーは傷ついた心を癒やした。だが、これは後に彼女の終身の絵のテーマとなった広大な森、吸い込まれるような大空などの原風景を余すことなく身に感じた体験で、「私の作品を生むまさに土台になる所だった」と言っている。 

折り合いがうまくいかない厳格な姉の支配から逃れるには、家を離れることだと決心したエミリーは、19歳になる直前の1890年晩秋に、サンフランシスコで絵の勉強をしようと決心し、一人旅立つのである。下宿先は、昔ビクトリアのカー家に半年ほど住んでいたことのある家族の家に滞在することで長姉を説得したが、エミリーはこの人々にもいろいろと気をもませることが多かった。 

だが、サンフランシスコ美術学校では絵の勉強に専念するかたわら、いろんな国から来た多くの学友たちと交わり、刺激的な出会いを体験するのである。家族、特に長姉の仰圧から開放され、のびのびと学び、大きく成長した時期でもあった。 

当時のサンフランシスコの町の様子、そこに生きる人々の生活などが、人生の後半で文章をつづるようになってから記した「Growing Pain」という書物の中には実に生き生きと語られている。

いろいろなことに興味を示しながらも、しかし、生まれ育ったクリスチャンとしての宗教的なバックが、画材の裸体に対する思いをどのように受け取ったかを書いた個所などは興味深く、今の時代に読むと笑いさえ込み上げてくる。

 
それは「Difference Between Nude and Naked 裸体と裸の差)」のエピソードに書かれている。「私の家族は非常につつしみ深かかったため、それはまるで暗い部屋で入浴する時でも水着をつけるに等しいようなものだった。彼らの考えている美というものは、衣服の下の生きた人間の体にあるのではなく、それを包む衣類だったのだ」とある。 


結局、サンフランシスコには2年半滞在したが、この間に厳格な長姉の Edith が妹2人と共に1年もの長期にわたって訪問するなどの出来事もあったものの、エミリーは絵の勉強には熱心で、いろいろな思いを乗り越えて生活した。 

しかし当時のアメリカ西海岸の文化には、芸術を生みそれをはぐくむ潤沢な風土はなく、エミリーがカナダに帰国した時に持って帰った作品は、彼女自身も「退屈極まりなく感情の表現に乏しいものだった」と認めている。つまり非常に基礎的なことを学んだに過ぎなかったのだ。 

episode 1
▲1890-1893年ごろの作品「Wild Lily」(On deposit at Art Gallery of Greater Victoria from the Collection of the sisters of St. Ann, Victoria BC: Gift of Emily Carr in Memory of Elizabeth Carr 
(ただしこの写真は生家の庭に掲げられているもの)

帰国してからは絵画教室を開き子どもたちに教えていたが、当時のビクトリアには絵の展覧会などはなく、わずかに農産物などの品評会が行われる際に、絵画のコーナーを設けて出品するくらいのものであった。 

そんな鬱屈(うっくつ)した生活を送っていたある日、フランス人の画家と出会った際に「カナダの風景は絵にならないし、絵画を学ぶ場所はパリかロンドンだ」と言うのを聞き、また友人がヨーロッパで勉強していたこともあり、更に絵の勉強を極めるためにロンドンに行く夢をはぐくむようになって行った。 

一方エミリーは、少女の頃からアメリカ大陸の北西部に住んでいる先住民の世界に魅せられていたといわれるが、当時、この島での彼らの人口は白人と同じくらいだったようだ。

幼少の頃から日々の生活の中で、白人の家で働いたり、小さな果物や肉などを売り歩く彼らの姿を見ていたが、初めてバンクーバーアイランドの西海岸に位置する先住民の住む
Ucluelet(ユクルーエット、トフィーノの南=サーフィンなど海洋スポーツの名所として知られる)へ出かけたのは、サンフランシスコから戻って数年たった1898年で、この旅で初めて先住民を作品として描いたのである。 

ロンドン行きの夢はありながら、特にこの時期には西海岸の広大な自然の中で、彼女の一生のテーマとなる船や家など形のあるものを描き、その素材を使うことが出来るチャンスがある時のために作品のモチーフを蓄えていたという。


(次回に続く) 





 

惜しまれながら閉店する「The Original Christmas Village」 クリスマスの小物たちに囲まれたギフトショップ


子供ならいざ知らず、一年中クリスマスなんてちょっと飽きてしまうのではないかと思うのですが、こんなに可愛らしい小物たちに囲まれているのなら、その心配はないようです。
このごろは、オンタリオ州の Niagara-On-the-Lake にも「Just Christmas」などというお店があるように、赤い服に太鼓腹を隠したサンタクロース、白や金銀で縁取られたエンジェル、いつも真顔のナットクラッカーの兵隊さんなど、クリスマスになくてはならない飾りものを専門に売る店が珍しくなくなりました。 



▲ビクトリア市の「The Original Christmas Village」、お店の外観 


▲チャイナタウンの入り口 

ビクトリアの「The Original Christmas Village」は、カナダで一番古いというチャイナタウンのすぐそばの繁華街にあります。
建物の屋根には、足を組み、プレゼントにひじをついてちょっと一休みといった風情で、街を行く人たちを見下ろしているサンタクロースが座っていて、チャイナタウンの門構えと共に町のシンボルになっています。 

ビクトリアの市民は一年中買い物が出来ますし、太陽がいっぱいの夏のシーズンは、特に観光客で大賑わいです。
 


▲店内はご覧のとおり、クリスマスの飾り満載 


▲とにかくクリスマスムードいっぱい。これが店の中とは思えないほどです 

店は、ドイツ人の Falk & Gudrun Reinhold 夫妻が27年前にオープンし、ずっと同じ場所で商売してきたのですが、このユニークな店を閉めることになり、マスコミが大きく取り上げています。理由は、ご主人の Falk さんが去年亡くなり、残された Gudrun 夫人ひとりではビジネスの管理をするのが難しく、リタイアすることに決めたとのこと。 

オーナーがドイツ人ということで、本国から取り寄せた木製の小さな置物があちらこちらにあり、その精巧さが目を引きます。
「ビジネスは誰かが買い取るのですか?」の質問に、「いいえ、そのつもりはありません」と Gudrun さん。 



▲店内には、ちょっと頭をひねって考える必要があるこんな看板も・・・ 

数え切れないほどの小物が並ぶ品々をすべて売るのは「可能なのかしら?」と思ってしまうのですが、このほど始まった大幅な値下げセールもあってお客様で賑わっています。
店内には何やら由緒ありげな古い日本人形やチャイナドールが並ぶ棚もあったり、イースターが終わったばかりのため関連の飾り物も置かれています。 



▲日本人形やチャイナドールも値下げセール 


▲カラフルなイースター関連商品 

このところ、米ドルが強いことを受けて、今年の夏はアメリカからの観光客が激増すると予測されています。また、日本や中国からのお客さまも多いようで、ちゃんと日本や中国などの国旗も飾られています。 


▲各国の国旗が飾られている店内 

春から夏は町が花であふれ、ガーデンシティーの名にふさわしいビクトリア市。お越しの節はぜひ、この店が閉店する前に立ち寄ってみてはいかがですか。 

The Original Christmas Village 
1323 Government Street, Victoria (at Johnson Street)
Tel : 250-380-7522 





 


ヴィクトリア市「エンプレス・ホテル」のシンボル


E Hotel


ウィーピング・セコイアの木が伐採されました

バンクーバーアイランドのビクトリア市を一度でも訪れたことのある人は、ダウンタウンのど真ん中に位置する Empress Hotel の前に立ち、この奇妙な形をした通称 Weeping Sequoia(ウィーピング・セコイア)と呼ばれるヒノキ科の常緑針葉樹を見て驚いた経験があることでしょう。そして、写真に収めようとシャッターを切り、また木々と一緒に記念写真を撮った人も多いことと思います。 

E Hotel
訪れる人々の人気者だったウィーピング・セコイアのペア(2014年6月1日撮影) 

ホテルの正面入り口に向かう道に、巨大な2頭のマンモスか、あるいは象がノッソリと立っているかのように見え、思わず笑いが込み上げます。ツーリストは必ず足を止め、正面から、横から、斜め後ろからと、あきずに眺める光景は、観光シーズンが始まると必ず見られる夏の風物詩だったのです。 

ところがこのユーモアいっぱいの2本の木が、先週の4月2日、バッサリと切られてしまいました。理由は、根がはびこり過ぎて、ホテルの小径(こみち)にはい出し、お客さまに迷惑がかかるためとのことで、市も伐採の許可を出しました。 

E Hotel
4月2日、2本の木がバッサリ切られた後の風景(4月3日撮影) 

E Hotel
残された切り株(4月3日撮影)  

各国からの要人が必ず宿泊する107年の歴史と477部屋もある由緒あるホテルは、ビクトリア市民にとっては大きな誇りですが、昨年8月に売りに出されました。 

新オーナーは、バンクーバー出身のイタリア系移民2世のビジネスマンで、一家で手広く不動産業を営む Bosa Development Corporation です。3,000万ドルで購入しましたが、今後は大きなリノベーションをして、新装新たなホテルに生まれ変わる計画が立てられています。しかし、重厚な雰囲気を持つ外観には出来るだけ手を加えず、引き続き当市最古のホテルの一つである偉容を保つように心がけるとのことです。 

 E Hotel
ホテルの廻りにはすでに花が咲き乱れていますが、まだ観光客はそれほどでもありません。
でも今夏、再訪される方がいたらきっとガッカリすることでしょう。







 

ヴィクトリアでのイースター

春の兆しを感じてからすでに随分と日が経っているヴィクトリアですが、イースターを迎えて一段と、季節の移り行く様子を目にします。

贅沢なことですが、花が咲き乱れる風景はもうお馴染みになりました。
それでも思わぬところにワッと咲いている花を見ると、思わずカメラを向けてしまいます。


Easter

当地に来てからまだ一年も経っていないものの、その最初の年という事がもちろんあるのでしょうが、撮った写真はざっと数えただけで7千枚以上になっていることに我ながら驚いています。

Easter

梅や早咲きの桜が終わり、普通の桜が終わり、今は八重の桜がそこでもここにでも真っ盛りです。

Easter

sakura

sakura



昨日はイースターの祝日でしたが、トロントにいては考えられないような過ごし方をしました。

まず拙宅のすぐそばにある海に突き出た小さな半島の先で、6時半ごろの日の出と共に行なわれた早朝礼拝に出ました。

小さなグループでしたが、キャンプファイヤーが焚かれ、集まった信者たちはキラキラと輝く眩しい陽光を浴びながら賛美歌を歌い、キリストの復活を讃える日に相応しいとても神秘的な幕開けの礼拝でした。


Easter

Easter

朝が早いため後ろを見れば、朝日に少し染まった薄墨いろの空にはまだ月も見ることができました。

Easter

人々のつながりが教会を通して行なわれるのは何処も同じですが、こうした行事に特に熱心なのがunited church(合同教会)で、この礼拝も拙宅の近くにある教会が執り行いました。

Easter

ちなみにunited churchはゲイ、レスビアンの聖職者をいち早く受け入れた教会で有名です。どの教会でもそうであるように、この教会も折りあるごとに恵まれない人々を救済する各種の行事を行なっています。

Easter
はき慣れたちょっと古いソックスを集めてそれを必要とする人々に送ったり、朝、パンを提供する行事を知らせるポスター

その後は、子供たちを交えた行事を常に行なう家族的な雰囲気の通いなれた教会で、弦楽四重奏とトランペットの演奏する礼拝を、そして午後には、当地で唯一の日系教会にも出向き期せずして3つの礼拝を体験したのです。

Easter
子供たちが生の花を十字架にさして飾っている。後ろには弦楽四重奏の演奏者たちやコーラスグループ座っているのが見えます

「きっと頭の後ろからは”後光”が射しているかもしれないわね」と冗談を言ったら、「それだけの回数の礼拝に行ったら、少なくとも一年間は神のご加護があるよ」なんて冗談で返されました。

私は、幼児洗礼を受けたキリスト教徒であり、神は信じるものの、長じてはどの宗派にもどの教会にも属さない生き方を貫いて来たため、その時の気持ちの赴くままに礼拝やミサに出席します。これからもこの生き方は変わらないことでしょう。

今日のように幾つもの教会を廻れるのは、ヴィクトリアがコンパクトにまとまった運転しやすい町であるからと言うのは確かでしょう。




 

トロントのメルマガ「e-nikka」に掲載

カナダ西海岸で初の「錬士」称号を取得

karate
海辺でポーズを取る錬士ケン・マーチテイラーさん(photo by Enise Olding)

ケン・マーチティラー(Ken Marchtaler)さんが初めて武道に興味を持ったのは、まだテイーンエージャーだった1973年ごろのこと。当時若い男の子たちの夢は、かっこいいブルース・リーのようになることだった。

マーチティラーさんもまさにその一人。だが、カンフーを習い始めたものの、ブルース・リーのような技や体躯(たいく)を得るには、気が遠くなるほどの努力が必要なことに気付くのに時間は掛からなかった。

 
当時、北米で道場を開いていた先生たちは、 日本をはじめとする東洋の国々に軍関係の仕事で駐屯した際、技を習得した人が多かった。そのため武道には不可欠な精神的な要素は二の次で、とにかく強くなることが第一。

大声でどなり、時には竹刀(しない)やベルトなどで容赦なく体罰を加えることも辞さなかったのだ。

そんな指導について行けず、マーチティラーさんは半年ほどで辞めてしまった。

しかし武道というものにはそれからもずっと興味を持ち続けていた。だが、そんな思いとは裏腹に、大学卒業後の実生活ではカナダの大手銀行に就職し、銀行マンとして
40代初めまで仕事をしていた。

中西部の町々での勤務もあり、中堅のマネジャーとして活躍したものの、ある時、トロントへの転勤を打診されたのを機に退職し、生まれ故郷である西海岸に戻って来たのである
 
それまでには何度か出張でトロントにも行き、エキサイティングな大都市であることは知っていた。しかし彼の目には、行き交う人々はただ黙々と働くファクトリーワーカーのように映り、家族を伴って住みたいという決心はどうしてもつかなかった。
 
出身はバンクーバーだが、妻の家族がビクトリアでペイントのビジネスをしていたことで、海峡を渡ってビクトリア島に移り住み、しばらく家業の手伝いをしていた。

と同時に、若いころ短期間ではあったが足を踏み入れた武道には興味を持ち続けていたため、中断期間はあったものの、
1990年初頭から真剣に練習を再開していたのだ。
 
武道と一口に言っても、柔道、合気道、空手道、太極拳など幾つもある。そんななか、マーチティラーさんが特に興味を持ったのは合気道で、のちには仏教的な思想を重視する沖縄空手に強く傾倒するようになった。

練習を重ねるうちに多くのトーナメントにも出場し、数々のタイトルも獲得するようになって行った。


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尊敬する小林流(しょうりんりゅう)の中里周五郎範士(右)が渡米した折のワークショップにて

小林流のロゴ

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こうしてのめり込むほどに、世界的に名の知れた World Marital Art Game(国際武道大会)や、国際オリンピック委員会(IOC)と強い協力関係にあるThe Association For International Sport For AllTAFISAなどのイベントでカナダ側の役員として大いに活躍してきた。
 
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2008年9月、2800人の参加を得て韓国の釜山で行なわれたTAFIS主催の国際武道大会で技を披露するマーチティラーさん 

そして昨年12月には、黒帯伍段以上を保持する者のみが更に得られる3つのランク(錬士、教士、範士)の「錬士(Polished Master)」と呼ばれる最初の称号に挑戦し見事にパスしたのである。
 
カリフォルニアのチコ市(Chico)で行われたこの審査会は、4時間半もの長丁場であった。というのも、マーチティラーさんの場合は錬士を取る資格の出来る「黒帯伍」を同審査会でまず獲得し、次に錬士への挑戦を行ったため、心身共にこの上ない厳しいものであったと述懐する。

参加者は28人だったが、「錬士」を獲得したのは57歳のマーチティラーさん一人だけであった。ちなみにこの称号の保持者はオンタリオ州に6人ほどいるが、西海岸ではマーチティラーさんのみである。
 

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『錬士』の称号を得たカルフォルニア州チコ市の審査会で 

「統計的な裏付けはありませんが、大体、『黒帯初段』は100人に一人くらいの割合で持っているようです。でも、その後、『黒帯弐段』に進むのは大変なことなのです。世間一般では黒帯を持っていると、たとえそれが初段だとしても、すごい!と思われますが、これは大学を卒業してBAを得たと同じようなもので、単に基礎を学んだというだけに過ぎないのです」とマーチティラーさんは語る。
 
並みの日本人以上に、武道に精進しているマーチティラーさんの過去を知るほどに、さぞや日本とのつながりも深いかと思えば、訪日経験は201211月の一回だけ。

スポーツの発展と振興に力を注いでいる東海大学での講演に招待された時のみで沖縄に行く機会はなかった。

 
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東海大学での講演

東海大学では、「若い世代と武道、西と東の融合」を演題に、カナダを含む北米での武道の発展について語ったが、来年には再度の訪日を予定しており、その時は是非沖縄に言ってみたいと言う

カナダでも講演依頼は多い。特に学校で若い学生たちに向けて話す時は、「自己啓発の重要性」にふれ「正しいことを正しい時に正しく行う」ことを説くという。
 
2001年ビクトリア市内に道場を開き、「Warrior Martial Wellness Centre」と命名した。ここには男女を問わず100人ほどの生徒が通ってくる。

年齢は3、4歳くらいの幼児からシニアまでと幅が広い。過去には、マーチティラーさんの母親も練習に励み、
75歳でオレンジベルトを獲得するまで指導したという逸話もある。

 
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数々の写真や賞状が飾られたWarrior Martial Wellness Centre

飽きっぽい子供の練習を長続きさせるには、年齢別に小さなグループに分け、同年代同士で切磋琢磨(せっさたくま)できるようにすることが重要で、たとえ3歳くらいでも、結果が眼に見えるように工夫することで興味が湧き、姿勢よく座るなどの基本的なことはすぐに覚えるという。

 
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子供用に作成した練習達成カード。技を取得するたびにスタンプが押される 


武道の習得は相手を倒すためではなく、「あくまでも自分への挑戦」と強調するマーチティラーさんの目はゆるぎない自信に満ちている。
 
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【季節の花だより】 梅、シュロ、モクレン、そして桜並木と水仙と・・・春たけなわのビクトリア市南端



春うららの日が続くビクトリア市の南端に、陽気が暖かくなると人の行き来が俄然(がぜん)多くなる通りがある。

2月末から3月にかけて閑静な住宅街に観光バスや白い馬の引く馬車に乗ったツーリストが増えるのは、梅の花、シュロの木、モクレン(マグノリア)、そして2ブロックほど離れた通りに1.6キロほど続く桜並木を見に来るからだ。 

暖色の薄黄色に塗られた木造の家は、ごく普通の2階建ての住宅。だが、前庭にそびえ立つ15本のシュロの木はまさに「お見事!」と言うほかはなく、いやが上にも人の目を引く。

 
シュロの木

シュロの木
梅の花、シュロの木、モクレンがある家(3月12日撮影)

通称 Chinese Windmill Palms (学術名=Trachycarpus Foretunei)と呼ばれ、高さは7.6メートル、樹齢45年ほどたつというが、ここビクトリアはシュロの木が育つ北限とのこと。

もちろんこれほど立派に育成させるには、家主の絶え間ないケアがあってのこと。暖かくなる春ごろからは週1回、真夏には4日に1回1時間ほどの水やりが欠かせない。 

真冬に時たま降る雪のときは、葉に積もったパウダースノーを振り払うそうだが、今は余りに背が高くなり、それは出来なくなったものの元気にグングン育っている。

屋根の一部を切り取ってシュロの木に生育空間を譲ったりもしているが、根が張っても地下の水道管などには全く支障はないそうだ。


シュロの木
ムラサキのモクレン(3月12日撮影)

隣家にある紫(むらさき)のモクレンはこれから2、3日たつとその盛りを迎えるが、モクレン、シュロの木、梅の花のコントラストは暖冬の地ビクトリアならではの光景かもしれない。 

またここから2、3ブロック行ったところには、ヴィクトリアの中でも特に美しい1.6キロメートルも続く桜並木で有名なMoss St.がある。


桜並木
有名なMoss Street の桜並木(3月10日撮影)  

シュロの木
咲き誇る桜(3月10日撮影)

水仙


梅と違い桜の寿命は短いため、あと1週間もすれば桜の花びらで通りが埋め尽くされる。  


シュロの木
作家アリス・マンローの元夫が経営する本屋の前に開花した早咲き八重桜(2月20日撮影) 

シュロの木

2月半ばに満開を迎えた早咲きの桜はもう散ってしまったが、この八重桜は、2013年にノーベル文学賞を取ったカナダの女流作家アリス・マンローの元夫が持つ本屋さん「Munros Books of Victoria」の前にあり、本屋と共に有名な観光スポットだ。


また3月になって急に増えたのは至るところに咲く野生の水仙である。


水仙

水仙

水仙

水仙
「花盗人」よけの小さなサイン(3月14日撮影)







 

能(金春流)の公演会

トロントからBC州ヴィクトリアに国内移住して一番ミスすることの一つは、日本からの文化的催し物を見る機会が少ないことである。

トロントでは、例えば国際交流基金や日系文化会館などで開催される各種の催し物は、驚く程バラエティーに富んでおり大いに楽しめる。

もちろん日本に行けば見ることが出来るものも多いが、特に国際交流基金は、カナダ人に日本文化を紹介すのが目的のため、コンパクトにまとめた興味深い各種の催し物が常に用意されている。

絵画、陶器、歌舞伎、映画関連の集いなど、それぞれに手際よく作品を展示し、その期間に関係者を招待してのレクチャーなどを頻繁に行なっている。

だがそうした催し物をここヴィクトリアに期待するのは無理なことで、また果たして日本文化に興味あるヴィクトリア人のどれほどが会場に足を運ぶかは疑問である。

当然ながら当地でも、ローカルのカナダ人たちが催すオペラ、バレー、ジャズのコンサートもあるし、演劇も映画も常にやっている。

中にはきらっと光る歌手、演奏家、役者、作品もある。だがトロントで一流のを見慣れた目にはちょっと物足りないと感じることも少なくない。

そんな中、2月27日に日本から金春流の能の一団が来て、「Continuity&Connection(繋ぐ 〜多次元を〜)」と題する公演が行われた。


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演目は、「翁」「高砂」「盤渉楽(ばんしきがく)」「羽衣」、そして「絆」であった。
演目はどれも謡と共に太鼓、笛、鼓が演奏され、物語も日本人としてはよく知っているものだ。

だが最後の「絆」では、「羽衣」の後半にジャズピアニスト木原健太郎(
http://kentarokihara.net/)の演奏する曲が加わり、謡、雅楽器と共に舞う天女の踊りがとても幻想的であった。

初めて見る洋楽器とのコラボレーションは、音楽の世界の可能性を十分に知ることが出来、
見ているものを実に不思議な世界にいざなってくれた。


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見事に舞い終わり、演奏し終わった後の挨拶
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スタンディング・オベーションの拍手を後に
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岡田誠司ヴァンクヴァー総領事(右)も出席して歓談
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1400年の歴史を持つ能楽最古の流派金春流を率いる山井綱雄氏とご夫人
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ヴィクトリア市で繰り広げられた中国人の春節

すでに中国人のお正月は一昨日終了したが、先週の日曜日に行なわれた中華街での催し物の様子を掲載しよう。

ここヴィクトリア市内でも、エスニックの人口で一番多いのは中国系の人々である。人口比を見ると、日本人の0.6%に比べ、彼らは3.8%という。

しかし、それにしては中華街は小さく、何と1ブロックしかないのが不思議だ。そしてここにはいわゆる東洋系の食料品を売る店がたった3件しかないのである。

至る所にあるトロントのチャイナタウンを知っている身には、最初その規模の小ささに驚いたものだ。




しかし小さければそれなりにこじんまりとまとまるし、身動きできない程の人でもないことに、返って新鮮さを感じた。

この2枚の写真(↓↑)は、中華街の入り口の遠景だが、今年は飛びぬけての暖冬のお陰で、すでに入り口近くにある白いマグノリア(木蓮)が半開きの花をつけていた。




街並みはたった1ブロックながら、ドラゴンダンス、獅子舞、子供たちの民族ダンス(↓)など、一生懸命に新年の祝賀を盛り立てようとする熱気がみなぎっていた。

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どの店も、店頭にサラダ菜を紐につけて吊るし、獅子がそれにかぶりつくのが人寄せのイベント。獅子舞が始まる前に急ぎ吊るす人も見受けられた。(↓)

獅子がサラダ菜を上手くかじると、商売が一年繁盛するのだそうだ。




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サラダ菜以外にも、$20札のお札を巻いて吊るすお店もある

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鐘や太鼓をジャンジャン打ち鳴らし、獅子舞を応援し景気付けをする。

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獅子も疲れて一休み・・・

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「あ〜、楽じゃない!」獅子の縫いぐるみ中でダンスをする人は大汗をかいていた。

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チャイナタウンの一角にある龍の彫り物の後ろには、真っ盛りの花をつけた桃の木が見える

今や桃の木の花は町中至る所にみられるのだが、それに慣れた目にも「ウッ、これはちょっと違うぞ!」と感じた2本の大木。
やはり桜の木で、たわわな花がこぼれんばかりに咲き誇っていた。

カナダ人は「どうやって見分けるの?」と聞くけれど、花びらを見れば一目瞭然。「花びらの真ん中にスリットがあるでしょ」と説明。

それにしても見事!!!


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(↑)ヴィクトリアのダウンタウンには、一昨年ノーベル文学賞を取った女流作家Alice Munro氏の別れた夫が営む本屋がある。
この大木はその丁度真向かいに堂々と立っている。


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「桜は3月になってからよ」と云われていたため、これは予期せぬ驚きだった。


 

BC州・ヴィクトリア市周辺の春の兆し(2)


梅の木の並木道

去年の今頃はトロントの氷と雪の極寒、-20℃(こんな時の体感温度は−27、−28℃等になったりする)などというのも珍しくない日々を過ごしていたが、今年はヴィクトリア市に国内移住して、冬の暖かさに日々驚愕している。

沢山いるトロントの友人たちに、春の兆しを告げる様々な花の写真を送り続けているが、度が過ぎればこれは嫌味。

何故なら今年も今の時期、彼らは同じように−20℃の日々をを送っているのだから・・・。

と言うわけで、我がblogに載せて沢山の方に目の保養をして頂くことにする。

ここの梅は、日本のとはちょっと種類が違う(土地の人はJapanese Ornamental Plumと呼ぶ)のだが、何とも見事な「梅並木」が街のそこここに見られる。

何の説明も要らない。

ただその見事さを眺め、そして時に、肌に心地よい海風が吹けば、天に舞う花びらを目で追う。

余りの可憐さに思わず手に取れば、ピンクの花びらが何とも愛おしく感じられる。





Ume St.

Ume St.



濃いピンクの梅も見事だが、こうして薄ピンクのを眺めるとまた違った風情で、桜を彷彿とさせる。

当地の桜は3月上旬に開花するとのことだが、いまから待ち遠しい。





 

BC州・ヴィクトリア市周辺の春の兆し(1)

カナダの西海岸に位置するヴィクトリア島は、国内で一番暖かい地域
なのです。


1月末には素晴らしいピンクの花をつけた寒椿が咲き始め、レンギョ、
雪柳、ボケ、水仙、クロッカス、ベビー水仙、クリスマス・ローズ
などなど、春がもうそこまで来ていることを知らせる花が次々と咲き始めます。

そして2月初旬からはピンクの梅の蕾がパッと開き、通りによっては
両側に見事な梅並木が突如現れます。

「息を呑む美しさ」とは、こんな情景のためにある言葉なのでしょうか。




Plum

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以下の3枚の写真は、拙宅のすぐ近くにある家の前庭です。
まだお住まいの方にお会いするチャンスはないのですが、私は
密かに「日本人か日系人の方だろう」と確信しています。




ちょっと控え目で落ち着いたたたずまいの造りは、何度見ても飽きず
出かけると少し遠回りしてもこの家の前を通ります。

その度に何か心が洗われるようで、私は一人静かにたたずみ、その
雰囲気を楽しんでいます。


flower

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