遠野便り 1号

 トロントの友人の一人(Y子さん)が、4月中旬に岩手県の遠野に出かけ、被災地でボランティア活動を開始しました。

この欄でも、カナダにおける被災地への募金活動に関して何回か記事にしてきました。

しかし、いざ外国から被災地に行き、そこで寝泊りをして長期にわたって活動に参加するというのは、思うほど容易いことではありません。

しかも我れらが友人Y子さんは、
一緒に働くボランティアたちの20〜30代の若者たちが、
自分の息子や娘たちであっても不思議ではない年齢。

ここが彼女の凄いところなのです!!!


Y子さんの勇気と前向きな姿勢に敬意を表し、月に1,2回彼女から届く「遠野便り」を掲載したいと思います。



 2012年5月1日



4月25日に遠野入りし、26日からボランティア活動を開始しました。

日々、約50名ちょっとの人たちが寝泊まりをしています。岩手県で陸前高田のボランティアセンターに次いで2番目に大きい組織とのこと。

これまでに、延べ約
6万人が参加したとのことですが、先の陸前高田の述べ人数を入れても約16万人で、日本国内から参加している人たちの数は、まだまだだとのコメントでした。

 

この「遠野まごころネット」と言う組織は、東日本大震災で被災した岩手県沿岸部の被災者を支援すべく、遠野市民を中心にして結成されたボランティアの集団とのことで、県外からの個人ボランティアを積極的に受け入れているのが特徴と言えます。

一日だけのボランティアも可能です。この遠野の拠点から、毎日のように、陸前高田、釜石、大槌、大船渡、遠野の5カ所へ部隊が出かけて行きます。

 

活動内容は、瓦礫撤去や民家の泥のかき出しなど体力のいるものから、炊き出し、足湯隊、お茶っこ隊、ふれあい隊、清掃隊、花壇の整備隊、お絵描き隊、水産加工支援隊などなど。

他にも音楽やコンサート、英会話、スポーツ観戦などもあり、私も一昨日、盛岡まで女子の「なでしこリーグ」のサッカー公式戦に5カ所の地域の人たちが招待されて、バスを5台連ねて行かれたのに、便乗できました。

地域の街作りにもそれぞれの担当のグループが関与して、地域の活性化のお手伝いをされているようです。活動の内容も自分で選べるところが柔軟性があってよいです。


遠野便り

 

遠野市は、山々に囲まれて街の真ん中を一級河川が通っていて、河原も整備されてテニスコートや散歩道、ゴルフのパティーの出来るところなどがあり、今の時期、他の地域に比べてやや遅めの桜の花が満開で、気温も少しずつ上がって来て、しのぎやすい所です。

ボランティアの中には、外国人も多く、アメリカ、オーストラリア、香港、マレーシア、カナダなどの国から来ている人がいて国際色豊かです。

やはり、メインは、20代から30代の人たちで若さがみなぎっている感じがします。どうかすると夜寝るときなど、大学の頃の合宿の多人数版と言ったところで何だか懐かしい気持ちさえします。


遠野便り

 

ボランティアの心構えとして、「自己完結」と言う言葉が聞かれます。持ち物の管理、食事の準備やごみの処理などはもちろん、体調も含めて自分で管理するようにとの意味です。

北海道や九州の人たちとも知り合いになりました。もちろん、地元の人たちともです。まだ、お茶っこ隊の活動に3度ほど参加して活動内容を把握するとともに、自分が持っていった手芸や折り紙工作の準備をしている所です。

英会話は、今のところ週一で、今後子供たちを対象にする話もあります。
若者たちの間で活動するって楽しいです。それに彼らの会話を耳にするのもとても新鮮で、昔を思い出して、おもはゆい気がします。



遠野便り
オンタリオ州の州花、トリリウム(トロントのダウンタウンにて

Y子さんへ−今トロントではこの花が真っ盛りです。









トロントにおける震災1周年記念イベントの一つ

昨日は、世界各地で「あの日」3月11日を忘れないようにとするの記念日の催し物が開催されたと聞くが、ここトロントでも「Remembering March 11(私たちは忘れません・3月11日)と題したイベントが、トロントの郊外にある日系文化会館(JCCC)で数百人を集めて催された。(これは、他でもそれぞれ趣向をこらして催されたイベントの一つである)

非常にまとまった企画であったが、当地のメディアも多数集まり、夕方から夜に掛けてテレビやラジオで紹介された。

また日本にも、カナダ最大の放送局であるCBC(Canadian Broadcasting Corporation)のキャスターが赴き、臨場感のあるレポートを送ってきた。

世界はこの想像に絶する被害の模様を再度思い出し、そこから立ち上がろうとする人々の健気な思いを広く紹介したようだ。

以下はJCCCのイベントの模様のほんの一部だが、写真で紹介したい。

地震一周年
キリスト教、神道、仏教の代表が「追悼と希望」への祈りを捧げた

地震一周年
被災地の子供たちに千羽ズルを送るプロジェクトにいち早く名乗りを挙げたトロントのキリスト教系学校の児童による歌とパーフォーマンス


会場の入り口に飾られた数々の被災地の写真地震一周年

地震一周年
トロントの子供たちから日本の子供たちへ

地震一周年

地震一周年
日本の子供たちからカナダの子供たちへのお礼状


このイベントに間に合うように発売されたDVD 「Mapleleaf Rising Sun」。
6ヶ月掛かって制作したこのDVDの売り上げは、すべてJCCCの津波基金に寄付されることになっている

地震一周年
14人のミュージッシャンが、日本の被災地・被災者を思い
しみじみと歌い,また演奏している。

左はDVDのジャケットを担当した日本人アーティストのTomori Nagamoto氏
右はダイレクターのGeorge Koller氏(georgekoller@hotmail.com)



地震一周年
この日のために飾られた入り口の生け花









「Walking Through Pictures」 by Chris Hope

 

最近トロント在住のある若者が、写真のフィルムを制作した。



http://www.walkingthroughpictures.com/




これは戦時中に、日系カナダ人がカナダ政府によって強制収容所に収監されたことを、2世代後の日系人の母親と白人のカナダ人の父を持つ若者(Chris Hope) が、自分のルーツの半分を探り出してフィルムの制作をしたものである。


私は二ヶ月のほど前に、親しい友人から「是非観て欲しい」といわれた時、正直ちょっと戸惑った。理由は、すでに同じような映画をもう何本も観ているからだ。


加えて、丁度一年前にはトロント日系文化会館で月一の九ヶ月に渡る「カナダ日系史」の勉強会があり、私は時間的に最大限の努力を重ねて全てに出席し、改めてカナダに於ける日系人・戦後移住者たちの歴史を学んだ経緯があるからだ。


講師は「Nikkei Voice」という日英両語の新聞社で、日本語部門の編集をしていた田中裕介氏であった。日系社会に深くかかわっている田中氏の、公私に渡る深い人脈があってこそ出来た勉強会であった。


一方同じ北米でも、アメリカにおける日系人の歴史は、折にふれ日本にも紹介されるため広く知られている。


例えば2010年に日本の放送局TBSが製作した「99年の愛」(岸惠子、中井貴一、草薙剛など)というドラマもその一つで、連続5夜に渡って放映された。
http://www.tbs.co.jp/japanese-americans/


私は、その時ちょうど訪日中だったため見る機会を得たが、一年後の去年の暮れには、北米の日本語テレビ局であるTVJapanでも放映した。


だが、カナダにも同じ日系人の歴史があることは、この国をよほど熟知していないと知らない人が多い。それを考えると、もう一本カナダの日系史を知る手掛かりになるフィルムがあってもいいのではと思ったのである。


ちょうどユダヤ人の強制収容所に関する映画が、今に至っても、演劇になり、映画になり、ドキュメンタリーになって語り継がれているように、過去の歴史の中の出来事で、人の記憶から消え去ってはいけないことは、何度でも何本でも制作してしかるべきだと感じたのだ。


もちろん、人は自分が、或いは近しい人がその渦中にいなければ、何事も我がこととして感じるのは難しいかもしれない。だがそれでも忘れてはいけない歴史は、記憶に留めることを怠ってはならないと思うのだ。


そういう意味で、この日系カナダ人の歴史を語る一本が、また世に出るのは歓迎すべきことだろう。このフィルムを観て私が何よりも強く感じたのは、祖母に対する孫の深い愛情である。


日系人の歴史を残すことは大変に重要ながら、その元にある製作者Chris Hopeの「家族愛」というものに深く感動した。


写真の下の英文は、ある日エレベーターの中で、世界的に有名な映画監督、アトム・エゴヤン(Atom Egoyan)氏にバッタリ(!)遭遇したChrisが、急ぎ渡したラフ・コピーのフィルムをEgoyan氏が観てChrisに送ったメールの、部分抜粋である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%83%A4%E3%83%B3

アトム・エゴヤン
From Wikipedia


"An extraordinary and beautiful film... exhaustively and passionately researched, both at the level of the filmmaker's personal history and as an investigation into our national consciousness"

感想文はもっと長く非常に温か味のあるものだが、初めて作った素人のフィルムにEgoyan氏からこれほどの評を貰えるとは!!!

Chrisがどれほど感激したか容易に想像が付く。

「第一作品自身を観てもらえるなんてさえ期待していなかったんだ!」と驚きを隠しきれない初々しい表情には、思わずこちらの頬がゆるむ。


いつの時も、前向きに頑張る若者のキラキラした目は眩しいものだ。


いつか皆さんも観る機会があることを願っている。

 

 




「3.11 Portrait Project」 トロント国際交流基金でのイベント

 年明け草々の1月6日、トロントの国際交流基金で「3.11 Portrait Project」と題する写真展が開催された。これを機に、プロジェクトを立ち上げた写真家・小林伸幸氏がトロントに来られ講演会を行なった。

会場には、被災地の生々しい写真25点と共に、小林氏が撮った被災者のポートレートの一部である112点が飾られている。

当夜の会場は、小林氏の写真と共にトークを聞きに来たカナダ人や日本人たちで溢れ、急遽椅子を増やすなど溢れんばかりの人であった。

写真展


写真展


写真展


小林氏がこのプロジェクトにかけた篤い思いが容易に伝わり、特にカナダに移住している日本人たちには、何度も胸に迫る思いが込み上げた。

あの日以来、実際に被害には会ってはいないものの、無力感に襲われた人々が多かったことは、折りに触れ見聞きする話しであるが、小林氏もその例外ではなかった。

特に、家族や友人たちとの大切な思い出のある写真を失くした人たちのニュースを聞くたびに、写真家として人事とは思えない気持ちになっていた。
そんな折に、岩手にいる友人から「被災地を写真にとって記録に残して欲しい」との依頼を受けた。

すぐ当地に赴き写真を撮り続けたが、徐々にそれだけでは満足できない気持ちが沸々と湧いて来るのを感じた。
もっと被災者たちに密着して「今を撮れるものがないか」を考えた時、復興に向けて頑張っている人々の表情を残してあげたいと深く思うようになった。

誰もが心のうちに深い悲しみを秘めてはいるけれど、一瞬でも笑顔を取り戻し「明日への勇気に繋がるポートレートを」と思い立ったのだ。

最初は体育館などの避難所の隅にカメラを据えて、写真を撮れる場所を用意しても、すぐに「撮って欲しい!」と申し出る人はなく、一人目が出てくるまでには時間が掛かったという。





写真展


だが、一人撮り2人撮りしているうちに次々に人が集まり、今では正直何枚のポートレートを撮影したか数えることさえ出来ないと言う。


しかし、着の身着のままの被災者たちには身を飾る者は何もない。

せっかく撮ってもらうならお化粧もしたいし、それなりの洋服も着たいと思うのは当然なことで、特に女性にはその思いが強かった。

写真展

そこで協力してくれたのがメーキャップアーティストやグラフィックデザイナーたちで、洋服は被災地に送られて来た古着の中から選び出した。

撮影開始は津波から2ヵ月後の5月からで、毎週末あちらこちらの避難所を訪れては写真を撮り続けた。

写真展

だが小林さんのボランティア活動はそれだけに留まらない。

3.11が人々の記憶の中で風化しないようにするには、できるだけ多くの人々に協力をして貰うことが大切と、小林さんを始めとするボランティアたちは考えた。


写真展


そこで、出来上がった写真を、被災地のことを身近に感じることの少ないなるべく遠くの小学校に持参し、子どもたちに額縁作りを協力してもらい、彼らの励ましのメッセージも添えて再びポートレートの本人たちに届けたのである。


その時の本人や家族たちの嬉しそうな顔が更なる励みになって、撮影を続行した。

 
写真展

この写真展は、東京、パリ、ポーランドで開催されトロントは三ヶ所目になる。

NY
での開催が予定されていないことが驚きだが「どなたか知り合いがいたら是非協力をお願いしたい」と小林さんは言葉を添えていた。

 写真展

写真展

3.11 Portrait Project

Jan. 7(Sat) – 27(Fri)
Japan Foundation Toronto (www.jftor.org)
131 Bloor St. West, Toronto, 2nd Floor

Tel: 416-966-1600  ext.223

Admission Free







北朝鮮の非情な指導者、金日成総書記死す

人の死を持って「嬉しい!」とは言いたくないが、トロント時間の夕べ遅くに届いた北朝鮮の金日成総書記の死亡ニュースには思わず「よかった!」という言葉が口を突いて出た。

北朝鮮

先回の私のblogに書いたように、つい先日(11月22日)トロント郊外で行なわれたこの北朝鮮指導者による国民に対する残虐行為の数々を写真で見たばかりのためも大きい。

だが、一人の独裁者が死んでも、しばらくの間は国の政治が変わるかに見えるものの、次の指導者が同じことを繰り返すのを嫌と言うほど見てきた。

カナダでも各新聞もトップで死亡を報じているが、当然ながら、どれも次の指導者がどのような舵取りをして行くかに注目している。

http://www.theglobeandmail.com/

北朝鮮

丸々と太った時期後継者 28歳の金正恩氏

カナダの全国紙THE  GLOBE AND MAILは社説では、三男の新指導者は丁度シリアと同じように、西欧で教育を受けたものの、民主主義の国に導いていく可能性はないと示唆している。

http://www.theglobeandmail.com/news/opinions/editorials/kim-jong-uns-western-education-unlikely-to-result-in-democracy-for-n-korea/article2275905/



北朝鮮

これほど非情だった指導者でも死亡のニュースに写真(↑)のように、国民は涙するのだ。「やらせかな」と、ふと思うが・・・。
人の気持ちとは不思議なものだ。


以下はカナダの主要新聞のトップ記事である。

 *トロント周辺で一番読まれている新聞 TORONTO STAR紙の一面:

http://www.theglobeandmail.com/news/opinions/editorials/kim-jong-uns-western-education-unlikely-to-result-in-democracy-for-n-korea/article2275905/

詳細を知らせる紙面:http://www.thestar.com/news/world/article/1104052--young-general-seen-poised-to-take-over-north-korea-dynasty?bn=1

 

*全国紙のTHE  POST紙の一面:http://www.nationalpost.com/

詳細を知らせる紙面: http://news.nationalpost.com/tag/kim-jong-il/

 
あの貧しい国民たちの本当の気持ちはどんなだろうか?

北朝鮮


北朝鮮

北朝鮮からカナダに移住した人々は今どんな思いだろうか?

そして、日本の横田めぐみさんのご両親は?



写真:共同通信。AP通信





北朝鮮の実態を知らせる写真、ビデオ、講演の夕べ

 

いつもならこの時期は、段々と深まる初冬の寒さに厚手のコートをクローゼットから引っ張り出すのが常だが、今年は記録的な暖かさで何か拍子抜けの感がある。

そんな中、22日(火)は一日だけ「すわ季節到来か!」と思わせる天候で、今冬初めての氷雨が降り、夜になるに従って肌を刺すように冷たい夜気が身にしみた。

だが、トロント郊外にある韓国系コミュニティ紙「Korean Times Daily」の建物の中は熱気に包まれていた。北朝鮮の現状を訴える写真展、記録映画の上映、命からがら逃避した人々の経験談、その一人である若い北
朝鮮の女性による『アリラン』の踊りが披露されたのだ。

N.Korea


N.Korea

この日を選んだ理由は、北朝鮮による延坪(ヨンピョン)島砲撃から1年を迎える記念日であるためと思われる。

日本からのニュースの伝えるところに寄れば、あの日の理不尽な北朝鮮の砲撃で、海兵隊兵士2人が死亡し、16人が負傷したという。そのうち8人は復帰したが、傷病除隊した8人は今も重い後遺症を抱えて社会復帰もままならないとか。そして負傷者の両親たちは、国からの傷病補償が少な過ぎるとして季明博大統領を名指しで批判していると聞く。

一年目の23日に行なわれた追悼式では、植首相が砲撃したことを「蛮行」と非難して「妄想を捨てて、南北共同繁栄の道を進むことを求める」と呼びかけた、という。

だが北朝鮮のこの「蛮行」は、韓国に向けて行なっているばかりでなく、自国の国民たちにも容赦なく行なわれている。そうしたことはすでに広く知られているとは言え、個人的に自分の目で写真展や、逃避者の体験を直接聞くことはなかったため、私にとって稀有な経験であると同時に胸の塞がる体験であった。

N.Korea
命からがら逃亡した女性が経験談を語る

N.Korea

このイベントに集まった人々は、東洋人以外にも白人のカナダ人の出席者も何人かいて
、主催者によると150人ほどが集まったとのことで、「Korean Times Daily」や「Korean Canadian Cultural AssociationKCCA)」の人々も驚いたとの事だった。

会場での撮影は自由であったことから、壁に掛かった北朝鮮の実態を映した幾枚もの写真を、私は自分のカメラに収めた。

N.Korea

ディスプレイされている写真の何枚かは隠しカメラでの撮影のため、焦点が合わずぼやけているものもあるが、命がけのこうした写真がどれほど貴重かは言うまでもない。

このイベントの予告をしたToronto Star紙によると、カナダに亡命した北朝鮮の人々は2008年には31人だったのが、2010年には175人。本年初頭からの6ヶ月だけで難民の申請をしている数は173人だが、カナダの居住権を得られるのは69%に過ぎないという。

北朝鮮の現状については、「南に住む韓国の人々でさえ誤解していることが多い」とこのイベントを新聞社と共に企画したKC C Aの代表者であるクリス・キム氏はいう。本当のところはどうなのか、その実情をカナダに住む韓国人やカナダ人に知らせようというのが今回のイベントの大きな目的で、カナダにおいて初めての試みという。

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トロント市議員のゴードン・チョウ氏

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Korian Canadian cultural Associationのクリス・キム氏

最近は年のせいか多少スリムになった金正日総書記ではあるが、後継者とみなされている三男の金正恩の丸々と太った体躯と対照的なのが、そこここで写る栄養失調の国民たちの姿。信じがたい過酷な実態をもっと多くの人が目にする事を願いたい。

トロントにあるThe North Koreans in Canada Association(メンバーは約100人)の人々は、「カナダ政府が、北朝鮮に対し政治的な圧力をかけてくれることを強く望んでいる」と何度も何度も繰り返していたのが印象的だった。だが永い間独裁政府の国で、何処にでもいるスパイに怯えて生きてきた亡命者たちは、民主主義の国カナダに来ても、中々外に出ようとはしない人も多いという。

むべなるかなである。

以下は写真展でのフォトである。

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ピョンヤンにある高級レストランのメニュー(上)、ステーキ(下左)、
レストランの入口(下右)
このステーキは、庶民の一か月分の給料に指摘する

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女性刑務所の風景

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刑務所での拷問風景

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刑務所では妊娠した女性はこのようにして中絶させされる


過酷な女性刑務所の強制労働風景

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街中の浮浪者の子供たち(↓↑)




線路に置き去りにされた子供

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孤児院の栄養失調の子供たち(↓↑)

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北朝鮮で一番必要なものは、荷車とそれを押す丈夫な女性とか(↓↑)

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庶民の引越し風景


売れる物は何でも売って小銭を稼ぐ


一般庶民の住宅

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向うに見えるアパートは電気の節約のために真っ暗
一方銅像は煌々と一晩中ライトがあてられている
もし何らかのりゆうでライト一つでも消えると、係りの者は処刑される






トロントの反格差社会デモ

NYに端を発した「反格差社会」デモは、15日の午後トロントでも大々的に繰り広げられた。

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しかし当市では、去年6月に行なわれたG20の会合(菅直人前首相出席)があった際に、プロの「デモ荒らし」が市に乗り込んで来たことで予想外の惨事に発展した。

それによって善良な一般市民の多くを警察が逮捕し、前代未聞の不祥事を引き起こした苦い経験がある。

再度そうした事件が起こらないように、今回警察はとにかく市民の身の安全を守ることを第一に考えて行動したようだ。

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デモはカナダの東海岸から西海岸までの数ヶ所の街々で繰り広げられた。

トロントでも2千〜3千の参加者が、金融街であるダウンタウンのKing St/Bay St.周辺から行進を開始し、近くにあるSt. James Parkに集合した。

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昨夏のG20の会合では警察の車が炎上。それを皮肉った「作品」を付けてデモに参加の女性

沢山のプラカードには、格差社会を皮肉ったもの、是正を呼びかけるものなど、貧困や失業に喘ぐ底辺の人々の声を救い挙げることを願うスローガンが多く見られた。

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暴徒化した市民などは見られず、デモは平和裏のうちに無事終了した

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本年5月の連邦選挙で大敗した自由党は党首がすぐに降板した
来年の党大会までの暫定党首Bob Ray氏

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まだ10月半ばだが気温はすでに11℃のトロント

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居並ぶTV局の車

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今日のイベントをNYのデモ主催者らは「世界一斉行動日」と位置つけたようだが、インターネット、フェイスブックなどの呼びかけによって約80ヵ国、951都市が参加したという。

ネット社会ならではの現象だが、この行動が世界経済の向上に繋がることを心より願いたい。


トロントでは15日(土)から17(月)も続いている。
http://www.theglobeandmail.com/news/national/occupy-protesters-gear-up-for-monday-demonstrations/article2203177/





日本からの映画人、日本からの文学者 〜それぞれの集い〜

毎年9月恒例のトロント・インターナショナル・フィルム・フェスティバル(TIFF)が、8日から始まり18日までの11日間に渡って開催された。

この間メディアは、出品された数多くの映画、作った監督たち、出演した俳優たち、ビジネス関連の人々のニュースで持ちきりになる。街中の多くの映画館、大学の劇場などでは、連日連夜上映される作品を見に行く人が、切符片手に早朝から深夜まで出歩いている姿に出あう。


嬉しいことにトロントは治安が安全なため、TIFFのメインオフィスのある通りを中心に、映画関係者や、また有名な俳優たち監督などを一目見ようと集まる人々が入り混じり、ダウンタウン一体は賑わいを増し夜は不夜城と化す。

今年の出品数は340本であった。


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ポスターの一つ

日本からの作品は8本で、「ヒズミ」「奇跡」「cut」「スマグラーおまえの未来を運べ」「Space is the Place」「Kotoko」「Monster Club」「ももへの手紙」であった。私はそのうち塚本晋也監督の「Kotoko」と園子温監督の「ヒミズ」を見ることができた。両作品に共通しているのは「内なる自分から目をそらさない」ということのようで、その視点からは意味深い作品といえる。

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2011年に配給された日本映画の案内書

だがもう一つの共通点は、“必要以上の暴力のシーン”が満載なことで、正直言って気分が悪くなるほどであった。

“きれいで面白い”という作品だけが映画だなんて野暮なことは言わない。「映画なくして何の人生ぞ!」と思うほど私は映画が好きだ。暴力シーンも実社会を投影するためには必要な技法であることは充分承知である。

しかし、ぶっ飛ばし、ぶん殴り、平手打ちを食わし、足蹴にし、アザやコブを作り、顔が変形し、全身血塗られる映像を「これでもか、これでもか、これでもか」と連続して撮影する必要性は何処にあるのだろうか、と不思議でならない。

ここまで残虐で過激になることを観客が要求しているのか? それに監督が答えた結果なのだろうか?或いは、監督が作品の中で暴力場面を次々に見せることで観客の気持ちを扇動し、それに対し(特に若い)観客が刺激を求めて更なる残虐性を要求するのか・・・、その相互関係は分からない。

両監督とも、例えばトロントの国際交流基金でのアジア映画の集いなどのパーティーで、あるいは上映される劇場での挨拶で、3月11日の東日本大震災に触れ、いかにその経験が大きかったかについて語った。自分自身の震災に対する思いを、とにかく作品を完成するということで表現したかったと異口同音に言っていた。

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是枝裕和監督 (↓)と「奇跡」(英語名 I wish)のポスター

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トロンと交流基金で挨拶する塚本晋也監督

その思いはよく理解できる。映画監督なら作品を作ることで、ビジュアルアーティストなら絵を描くことで、ミュージシャンなら音を作り出すことで気持ちを吐露したかったのだろう。

だが、例えば塚本晋也監督の作品は、いろいろな事情で子供を誘拐されるのではないかという恐怖を持つ母親を描いた作品に対し「震災で子供を心配している母たちの姿が主人公の母親と重なった。そんな時だからこそ切実な映画ができると思ったし、そういう立場にある母親にも共感してもらえるのではないかと思った」という。

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映画会場での塚本晋也監督

だが真摯に「
震災への思い」を口にするなら、てんこ盛りのあの暴力シーンは一体なんなのかと聞きたい。「共感を得たい」などと口幅ったい言葉が何やら「製作者の独りよがりと思い上がりではないか」と私は帰りの道すがらすっきりしない思いを抱えながら考え続けてしまった。

こう書くと、「それが分からないようでは、映画を好きなどと言えない」とか、必要以上の暴力シーン込みで理解しないと「文化人とは言えない」とでも言いたげな反応を示す人もいることを知っている。

だが、それでもなお、あれほどの暴力シーンに私は共感しかねる。

 〜*〜*〜


時をほぼ同じくして、トロント国際交流基金(
JFT)が4人(川上弘美、古川日出男、小柴元幸沢、小澤實)の作家・俳人・翻訳家を日本から招き2ヶ所で講演会を開催した。

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Ron Winger氏と小澤實氏

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Eric McCormack氏と川上弘美氏

最初のは
JFTが会場で、カナダの作家(Eric McCormack)と詩人(Rob Winger)との対談であった。こんな組み合わせのイベントはカナダでは非常に稀で、十分にエンジョイできるものであった。こうした催し物がない限り、ほとんど出会うことはないであろう両国の作家たちが、お互いの共通点を作品の中に見る視点が興味深かった。


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意気投合しEric McCormack氏と抱き合う川上弘美氏

また2つ目は「
Fukushima後の日本文学」と題するイベントで、トロント日系文化会館に集まって行なわれた。

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小柴元幸氏を司会にして、3人がそれぞれの立場から震災が自分の作品にどのように影響を与えたかについて語ったが、共通しての体験は、「一時書けなくなった」という状況に陥ったことだ。それをそれぞれの言葉で篤く語った深い思いが心に残る。

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特に福島出身の古川日出男氏は震災当日からの、自身の気持ちの揺れを時間軸を追いながら話し、それによって短編エッセー「許されるために」を書いたいきさつを語り胸迫るものがあった。

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作家、古川日出男氏

講演最後の質疑応答では、私が「つい10数年前に起きた神戸・淡路大震災の時と今回では、災害の規模や状況が全く違うことは充分承知している。しかし沢山の人が亡くなった大きな災害という意味では同じであるが、神戸の時も今回のように大きなショックを感じ、書けないという状況になったのか?」と質問した。

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司会役を務めた小柴元幸東大教授

これに対しては、誰もが今回は天災に加え人災である原発の問題があり、東京方面では余震や節電という日々の生活を脅かされることが続き、神戸の時とは状況が違うことをまず挙げられた。

が、とても興味深かったのは「神戸の時には東京で余震を感じることもなかったし、実生活に直ぐに不便を感じる状況ではなかったことで、切迫した思いがなかった」とし、「あの年(95年)は関西方面では地震(1月)が大変だったが、東京では3月にオウム真理教によって引き起こされたサリン事件があり、その対応が違った意味で大事件になった」と指摘された。

加えて川上弘美さんは「東北大震災は一時的には日本中が落ち込んだが、災害後すぐに関西方面に行く機会があったが、人々の生活に震災が全く影響はないかに見えて驚いた」と言っていた。

もちろん『自粛ムード』を戒めることが言われ、消費することがかえって日本の経済を助けるという考えに人々が変わったことはトロントに住んでいても知っていた。
だが、場所が違えば、人々の感じる切迫感は当事者ほどではないものなのだなと改めて感じたものだ。

そう考えると、地理的には地球の真反対側にあるトロントで、長い間被災地への義捐金をつのる為に多くのイベントが開催されたことはすごい事だと改めて思わずにはいられなかった。

 


2011年8月15日 66年目の終戦記念日に

終戦記念日  


今日2011年8月15日、日本は66年目の終戦記念日を迎えます。

この時期になると日本のメディアは、こぞって「戦争」に関するものを採り上げます。それは悲しく辛い戦争体験を風化させないために、これからもずっと続けて欲しいと願っています。

特に若い人々には、広島・長崎の原爆投下の事実も踏まえ、しっかりと学び記憶に留めて欲しいと思います。

唯一嬉しいことは、日本人にとって「戦争」は66年前の出来事であることです。いまだに戦いを強いられて、罪のない一般の国民が死んでいる国が世界には沢山あります。

残念ながら人間は、歴史から学ぶことをしないことが多いのです。となれば、少なくともその体験をした人々は、記録し、語ることで次の世代に受け継いで行くことが大切であろうと思います。

以下は私の母が、1995年に終戦50周年を迎えたとき、トロントに移住していたことで、「戦後50年と私」と題して、85歳だった母がカナダの日系新聞に書いた手記です。

父は、36歳で子供3人と義父母を残して、赤紙一枚で戦場に駆り出され戦死しました。そのとき母は34歳。その後の苦労は並大抵なものではありませんでしたが、何とか女手一つで家族を守りました。

縁あってこの母の物語を、後に娘の私が本にまとめ「カナダ生き生き老い暮らし」(集英社)と題して2000年に上梓することが出来ました。

母の子供時代の生活から、関東大震災、第2次世界大戦の体験、そしてカナダへ移住してからの生活、89歳で再度日本へ戻っての思い・・・・、一人の女性の紆余曲折の物語です。
ここに母の手記を挿入することが出来たのです。


母は2004年に亡くなってすでに7年も経ちますが、単行本から文庫本になった拙著を、いまだにお読みくださる読者がいることを有り難いことと思っております。


ちなみに拙著は、2年前の夏に日加友好80周年を迎えたことで、天皇皇后両陛下が来加された折り、一行の団長であった福田前首相を通してお二人にお渡し頂きました。
母の手記のページにスティッカーを付けましたが、両陛下がトロントからヴァンクヴァーに移動された後、女官のお一人が本入手のお礼の電話を下さいました。


最後になりますが、特にこのお盆の週末には、戦死された方々ばかりではなく、東日本大震災で亡くなられた多くの方たちの霊にも、心からの哀悼の意を表したいと思います。

 
           終戦記念日

戦後50年と私                

                   終戦50年目(1995年)の手記

 50年前の終戦記念日8月15日の関東地方が、雲ひとつなく晴れ上がった真夏の一日であったことは、終戦を語る人々の思い出の中によく出てくることです。

 私もあの暑かった日は、正午の玉音放送を横浜の自宅のお茶の間で、姑と共にラジオの前に正座して聞きました。

 今は誰でもが知っているように、あの放送は雑音が多く、また難しい言葉の羅列で、国民の胸にスーッと入って理解できるというものではありませんでした。

 しかし「戦争が終わった!」と言うそのことは、もちろん誰にでもすぐに分かりました。「日本はとうとう負けたのか・・・」と言う切ない思いと共に「あー、これで空襲のサイレンを聞きながら、子供を背負い防空壕に逃げ込む日々から開放される」と安堵し、体の力が抜けるような気持ちを味わいました。

 この夏の一年前、結婚して7年半だった主人は、赤紙とともに南の島フィリピンに送られていました。もちろん何の消息もなく−生きているのか死んでいるのかも知れず−人づてに最初はミンダナオ島に送られたと聞いておりましたが、その後セブ島に渡ったという噂もあり、本当のところは分からずじまいです。

 軍人でもない一民間人だった36歳の主人は、家庭が裕福だったこともあり、趣味の油絵を勉強するために「戦争が終わったらフランスに行ってみたい・・・」などと、夢のようなことを言っておりました。しかし、それも実現しないまま、帰らぬ人となってしまいました。

 出征したあの日のことは、今でも鮮明に脳裏に焼きついています。その時は同じ町内から主人の他にもう2人若い男性が召集されました。出発の朝3人は近くにある神社の境内に集まり、それぞれの家族が千人針のお守りを渡し、武運長久を祈りました。

 その後、軍歌を歌いながら最寄りの駅まで見送りのため行列をして行くはずだったのですが、そういう大げさなことの大嫌いな主人は「先に行ってくれ」と言ったまま、すーっと姿を消してしまったのです。

 私は一歳の次女を背に、6歳の長女、4歳の長男の手を引き、皆と駅までぞろぞろ歩いては行ったものの主人の姿は見当たりません。

 どうしたことかと心配していましたが、汽車の出発時間も迫ってくることですし、見送りの方々もプラットホームに上がって来られました。私も一緒に上がって行きましたら、なんと主人は長いホームの先端に一人で立っていたのです。

 戦争を心底憎み、自由人でありたいと願っていた主人のやり場のない思いが、そんな行動を起こさせたのかも知れません。軍律の厳しい軍隊の中で、その後どう生活したものかを考えると胸がふさぎます。

 終戦の翌年、昭和21年(1946年)3月に、区役所を通して政府から正式な死亡広報が送られて来たときには「皆さんと一緒に出発しなかったからよ」と一人ごちたものでした。

 同時に出征した町内の若者2人は無事帰還しましたが、桐箱の中の石一個と化した主人は、いったいどんな死に方をしたのでしょうか。目の前で死を確かめていない別れ方は、いつまでも中途半端は思いを引きずるものです。

 横井さんや小野田さんなど、戦後何十年か経ってジャングルで生存していた人が生還するたびに「もしや・・」という思いに何度も駆られたものです。

 戦後30年目(昭和50年・1975年)にフィリピン戦跡慰霊団に参加しました。主人が歩いたかもしれない島を巡り、まだまだほら穴に山と残るおびただしい数の遺骨を見たときは、本当に息のつまる思いを味わいました。これでは生存の可能性はないと痛感致しました。

 しかし人間というのは、本当に悲しいときには涙は出ないものだということを、この主人の死によって私は身を持って体験しました。

 政府から送られた遺骨代わりの石ころ一つが入った桐の箱を手にしたときは、涙より先に自分の肩にずっしりと掛かってくるこれからの生活と、混沌とした将来を思い「とにかく、しっかりとしなければ」と自分に言い聞かせました。「何があってもこの家族を飢え死にさせることはできない―」と心に誓ったとき、涙の一滴も落とす余裕はなかったのです。

 家が焼かれなかったことが不幸中の幸いだったのですが、高価な家財道具の多かった婚家の品々やタンス一杯の私の着物は、育ち盛りの子供たちの食料に取って代わりました。でもその後、知り合いの農家の娘さんが私の着物を着ている姿を見たときは、実に奇妙な感じがしました。

 また、今考えればとてつもなくおかしなことで信じがたいでしょうが、敗戦の後、進駐軍が上陸してくる直前はいろいろな噂が飛び交い、まるで鬼が来るとでもいうような騒ぎでした。

 私は外国人の多い横浜で生まれ育ち、そのうえ女学校も英国人やアイルランド人のマダム(尼僧)が英語を教える横浜双葉学園であったため、本当にそんな流言飛語を馬鹿馬鹿しいと思ったものです。

 そして女学校で夢中で勉強した英語のおかげで、その後私は、外国商社で仕事を始めました。終戦直前に舅を送り、姑とは25年間生活を共にして最期を看取りました。

 戦後のどさくさで荒稼ぎする人も多いなか、女の細腕を頼りの生活は心細いこともたびたびでしたが、皆が健康であってくれたのが何よりと思っております。

 進駐軍の手から初めて日本側に戻された横浜のデパートというものを「デパートってなぁに?」と不思議がる次女に「何でも売っているところよ」と言ったら「じゃあ、お父様を買ってきてよ」とダダをこねて私を困らせたものです。

 その娘の住むトロントに移住して今年で18年が過ぎ、こちらの生活にもすっかり慣れました。日本のように物があり余る贅沢さはないにしても、生活に不自由しない適度な余裕を心から有り難いと思います。

 そして、ここに来てからお知り合いになったご親切にして下さる多くの方々との繋がりは、85歳という人生の先が見えている者には、何にもましての財産と日々感謝しております。

 主人と、また沖縄の高射砲部隊で弟をも戦死させたこの大戦の「私の戦後」は死ぬまで消えることはないにしても、あの軍国主義の日本がなくなったことは、一日本人として全く悔いがないことを最後に付け加えたいと思います。

 

                          宮松芳子記




爽やかでカジュアルな2人

 
とにかく一言でいうと、「爽やかでカジュアル」という印象がピッタリの2人であった。

将来、英国の国王になる「ケンブリッジ公」とその新妻である「ケンブリッジ公妃殿下」のことだが、こんな堅苦しい呼び名より「ウィルとケイト」と呼ぶのが最も相応しい。

先週末までカナダを訪問していた。

ウィル&ケイト


4月29日に結婚してからまだ2ヶ月余り。初めての外国訪問にカナダを選び、6月30日にオタワ(首都)入りしてから、1週間余りの間に数ヶ所の街を訪れたのである。

ローヤル・ワッチャーと呼ばれる熱狂的な(主に)白人のファンから、ヴィジブルマイノリティーまで、大変な数の人々が「一目見たい!」と2人の行く先々に集まった。

ウィル&ケイト

そして、この2人を追う世界各国からの報道関係者の数は、なんと1300人余りだったとか。もちろん、日本からも来ていたことは言うまでもない。

このニュースを見ながらつくづく思ったのは、英国のエリザベス女王のように女性が君主の場合は別として、洋の東西を問わず「妃」というのは、どの国の王室でも同じで「刺し身のツマのような存在」なのだということである。

しかしこれは非常に「重要なツマ」で、これがなければ例え刺し身がどんなに立派でも、皿に盛ったとき形が安定しない。
それが「妃」という人の役割なのだ。だから王室、皇室というのは一組の夫婦、つまり「カップル」として存在することで意味をなすと言える。

ウィル&ケイト

特に外国を訪問する場合はそれが顕著で、「〜国王」「〜天皇」「〜公」「〜皇太子」などの男性たちは、役割上欠かせないながら、何といっても「華」を添えるのは妃であって、2人揃ってこそ親善訪問が成り立つのである。

どんなタイトルが付いた高貴な男性でも、その人だけであったら、迎える方の気の入れようにも違いが出てくるのではなかろうか。

今回のウィルとケイトのカップルを見てつくづくそれを感じ、また2年前の夏に日本の天皇皇后両陛下がカナダを訪問された時、取材で追った日々にも強くそれを思ったものだ。

 そして妻なる妃は、夫と行動を共にする場合には、自分の意思を表明するようなスピーチなどをすることはない。
となれば、彼女がどんな洋服を着、靴を履き、バッグを持ち、帽子をかぶるかがメディアの最大の関心事になる。

ウィル&ケイト

そうした姿勢は、カナダもまったく例外ではなく、テレビでのコメンテイターも「ケイトは何もスピーチをするわけではないので、彼女のファッションに集中してしまうのは仕方がない」とはっきりと言い切っていた。

ウィル&ケイト


この旅行中ケイトは、地味で落ち着いた濃紺、ベージュ、淡いピンク、ライトグリーンといった色合いで通し、カナダを離れる前になってやっと赤や黄色のワンピースを着ていた。

エリザベス女王のように「色彩のてんこ盛り」の洋服には一切お目にかからなかったが、選ばれた洋服は大変な人気で、デザイナーの元には「同じものを!」との注文が殺到しているとか。

ウィル&ケイト

 滞在中は雨の日もあった。


だが若さがなせる業か、2人の飾らない気さくな性格のせいか。雨に濡れても気にしない、傘は自分で持つ、そばの人と相合傘をする、参加したドラゴンボート競争でしぶきがかかっても意に介さない、夫のウィルの先方にケイトが歩を進め握手をして廻る・・・。

一方お互いの背中に手を廻し、いたわり合う姿も散見されるといった具合で、とにかくカジュアルなのだ。

ウィル&ケイト

そして何よりも、周りのお付きの人々が必要以上に気を廻したり、警戒をしないことが見ていて何とも気持ちが良かった。

カナダには、フランス系の人々の怨念が詰まっている場所がケベックに存在する。それは、この国に最初に来て植民地を築いたのはフランス人だったにもかかわらず、後続のイギリスとの戦いに敗れ、その支配の下に屈することになった。その戦地跡である。

ウィル&ケイト

2人はその地にも足を運び人々と交わった。
カナダが、今もって英連邦の一員であることに反対し、デモを実行したフランス系カナダ人たちも、「ウィルとケイトの2人に対し個人的に文句はないけど、君主体制に不満がある」と言う。プラカードにはかなり激しい言葉が並んでいた。

ウィル&ケイト

また、こんな面白いエピソードもテレビで紹介された。

2人がカルガリー訪問中に、ウィルに似ているといわれるある若い白人の大学生がテレビに登場した。
将来は獣医になるとのことだが、アルバイトでコーヒーショップに勤めているという。

彼がお客に何度も言われるのは「プリンス・ウィリアムに似ているね!」の一言。
いつも3人連れ立ってコーヒーを飲みに来るという白人のおばあさんたちも例外ではない。そして彼女たちいわく「一つだけ違うのはね、この学生にはタップリ毛があることよ!」と屈託なく笑っていた。

訪問する方も、迎えるほうも何ともカジュアルなのだ。

この2人がカナダ訪問する少し前に、日本の皇太子さまは「日独交流150周年」の関連行事に出席するためベルリンを訪問されたという。

(Photos are from The Globe & Mail, The Toronto Star &The National Post)


以下のサイトも併せてご覧下さい:
http://canadashakaiko.canadajournal.whitesnow.jp/









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